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『虐殺器官』(74点/100点満点中)

 『君の名は。』より『虐殺器官』の方が、遥かに切ない。名前などぶっちゃけどうでもいいのである。
 褒められて育てられた人は褒めて育てる人になるし、本を読まない大人が本を読めと言っても本を読む子供が育つはずがない。怒られて育った人は、他人の自己肯定を徹底的に阻んでいく方針で人生を歩む。
 社会的再生産論であるが、本作はその手前の言語的再生産論である。
 与えられた言葉が行動を規定する。その文法こそが神である。当人が文法を規定しているのではない。文法が人を操っているのであれば、新文法をひとつそれとなく生成すれば世界の各人の自由意思を簒奪の上で、その趨勢を思った通りに再編集できないか。そんな微風のように大胆繊細な仮定を、地球全土を血塗れにして描いたのが本作である。まさにあんなことやこんなことをされて人生を虐げられてきた日本のオタクにとっては、コードで世界を書き換えるという夢がありまくる設定だ。そのバイブスは『ソーシャル・ネットワーク』的でもあり、そのバイブスをアゲた感じは『キングスマン』の悪役的なノリである。
 虐殺を命じる虐殺文法を生成し、各地で内戦紛争を引き起こす天才的な言語学者兼テロリストと、要人暗殺専門部隊の主人公との戦いが描かれる。原作を一切知らなくても、本作は立派なSF映画・戦争映画として楽しめる。なにせ、一つの会社が本作の制作過程で倒産申請を出したのである。贅沢である。
 映画館の観客の95パーセントが3D映画でもないのに眼鏡を着用していた。公開タイミングもこれ以上ないくらいドンピシャ。めっちゃテロの香りがする今日この頃だ。期待のR-15だけあって血の飛び方や人体欠損・子供殺戮シーンなど、『キル・ビルvol.1』のオーレン・石井の生い立ちシーンを彷彿とさせる。あぁ、久し振りにちゃんとグロテスクな映画を見たなという感じ。かと言ってその暴力は全然爽快じゃない感じ、ちゃんとザラついた感じなので、教育映画の風情すら漂う。
 ほぼ全シーンノンストップでものすごい量の単語が詰まった会話がものすごい速さで展開する。えーっと、えーっと、あ、うん、なるほど、あーなるほどそういうことを言っているのね、というアハ感覚も新鮮であり、一冊分の本を読んだ気にもなれる。登場人物がなにをしているか一見わからないが、そのちょっと後に分かってくる展開がめちゃくちゃ入っている点、『オーシャンズ12』のような厄介さも、ファンにはたまらないのかもしれない。
 気に食わないとすれば、悪役もかなりの優等生的な動機で動いており、やはり純然たる悪ではないということである。虐殺を引き起こすその訴因も『銃・病原菌・鉄』的なことで、原作が十年前というせいもあるが、もうその後のSFはそういうものばっかりだったわけで、いまさら眼を見張るものがない。が、それ以外の魅力がちゃんとある。イルカも出てくるのでこの点数である。
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『沈黙 -サイレンス-』 (39点/100点満点中)

 今年度上半期で最も難解な映画かもしれない。日本人として見ると、たとえ理解が及んでも、腑に落ちることは決してない映画だからである。神の話をしているから、ではない。極めて昔の、分かり切った話をしているからだ。腑に落ちることは無い議論というものが、ハリウッド映画で、しかもそれが日本で撮られていて、登場人物の九十九パーセントを日本人を占める映画でも発生するのか。発生したのが本作である。
 基督教布教の為に日本へと上陸したクワイ=ガン・ジンの消息が不明となり、その知らせを聞いた彼のかつての弟子、若きアメイジング・スパイダーマンとカイロ・レンとが救出に行く。しかし政府による現地の隠れ切支丹への宗教弾圧はまさに内地紛争のごとく、熾烈を極めていた。
 人間の命が宗教弾圧の前では藁のように軽い、その無常を剥き出しにして描く演出の一環か、ドラマチックな音楽は劇中一切なく、ひぐらしが鳴くばかりのクラシックな日本の寂れた風景のもと、日本史の教科書では数行で終わらせられる話が、二時間半、日本人による日本人への拷問のフルコースシークエンスとして淡々と描かれる。神はそうして不在である。
 教え子が目の前でバンバン殺される中、さて司祭の苦悩と絶望たるやもはや理解の及ばぬ境地である。それでも神は不在である。
 浅野忠信もイッセー尾形も窪塚洋介もあの手この手の極悪小悪な言葉責めと精神的陵辱で主人公を追い詰めていく。それでも神は不在である。
 果たして、信仰は保てるか。神は不在なのか。という問題提起がこの映画の大まかな体裁だ。しかしぶっちゃけて言うともうそんなことはどうでもいいのでは?しかも今更議論してるヒマなんてなくね?と思ってしまう私は、クリスマスにクリスマスケーキを食べ礼拝堂に行きながら胸の中では沙羅双樹の鐘の音が鳴り響くその諸行無常に嘆き悲しむ一人の純正な日本人である。あまりこんな言葉を使うべきではないかもしれない、が、親日的表現と反日的表現とか目まぐるしく訪れ、司祭が正しいのか奉行政府が正しいのか、さらにはスコセッシは俺たちの味方なのか敵なのか、猛烈な混乱を来さずにはおれない。もはや日本人として鑑賞することは放棄せざるを得ないなとも思えた、が、それでも私は日本人である。この映画の正義もまた複雑だ。棄教しない司祭の前に、棄教した信者の死体を山ほど築いていく奉行=鎖国的日本の正義も、当時の一大正義である。棄教しない司祭の正義もまた、歴史的な決死の正義である。が、果たしてこれをスコセッシがわざわざいま描く理由はなんなのか。
 仏教徒と基督教徒の激論が交わされるシーンがある。日本対欧米のようなシーンである。が、事実日本人は無神論にも一神論にも有神論にもスピリチュアリズムにも傾かず、ましてや仏教密教基督教にも傾かぬ、闇鍋のように複雑にして独特の、もはや共通見解など存在しえないほどの極私的神論をそれぞれが持っている。その文化をその他の宗教文化よりもより洗練されていると誇りにしているのが、多くの日本人の潜在的な考え方ではないか。であるからすれば、スコセッシの『沈黙』が描く日英対立から学び取るものなどもう日本人にはほとんどないのだ。国教対国教を描く必要もない。殊に、日本を舞台にする必要性も無い。なぜならそれは、史実の一側面であっても、事実ではなければ、真理でもないからである。
 欧米の基督教信者であれば、この映画を見て、それでも神を信じ抜く勇気や信念の美徳を見出したかもしれない。信教の自由は布教の自由と同列に扱われるべきだという普遍的正義を見出したのかもしれない。が、そんな古いテーマに付き合ってる暇は我々にはない。自由の国よりも、はるかに自由な、だらしないほど自由な宗教観を持った我々にとっては、とっくの昔に結論が出た話なのだ。千八百円掛けて蒸し返される価値など、そこにはない。
 難解だったのか、理解の容易な作品だったかすらも、鑑賞後は分からなくなるような映画だった。踏み絵を踏むのか踏まないのかというキーテーマが全編を貫いている。即断即決のような性格の持ち主、体裁を取り繕うのがうまい賢い人間にとって、司祭の司祭的な、余りに司祭的な生き方には共感することはまずないと思われる。ところで踏み絵をするときの窪塚洋介のあの脚の長さは惚れ惚れするものがあった。この映画の一番良いところは、窪塚洋介の脚の長さである。その点数が上記の通りである。

『百円の恋』(98点/100点満点中)

 映画『百円の恋』の安藤サクラが最優秀女優賞を受賞するのは、当然のことだ。
 決して美しいとは言えない女が、全く美しくない女を演じ、そうして終盤最高に美しくなる。顔が腫れ上がってもう無茶苦茶なのに、である。これぞ映画だ女優だと全国の幼稚園の入園式で上映したくなるほど夢がある傑作。もう映画は綺麗な女なんて一人も出す必要がないことを安藤サクラが証明してしまった。ちなみに本作はR-15らしい。
 余談になるが、かつてあった死ぬ程怖い日本のショートショート映画で、控えめに言っても顔が恐ろしすぎる女性の幽霊が東京都心部の至る所に現れてはバンバン若者を呪い殺す映画があった。私はその幽霊を失礼ながら、安藤サクラが演じていたと思っていた、ら、違った。全然安藤サクラじゃなかった。その安藤サクラ本人は犬養毅内閣総理大臣を曽祖父に持ち、奥田瑛二を父に持つ、血筋が日本人として最強クラスの女性らしい。そんな女はたとい優雅に生きれても、人間として優雅な心持ちで生きていられるはずがない。実生活で世の中すべてを憎むように育ってもなんらおかしくない血筋である。少なくとも私が彼女ならそうなる。
 グレにグレ切って、就労経験も恋愛経験もない立派な無職として小汚いボサボサの茶髪を掻き毟りながら親の脛をかじり、そうしてブクブクと太り上がった32歳の安藤サクラは、いよいよ実家を追い出され、仕方なく行きつけのコンビニでアルバイトをすることなる。
 その行き帰りで通り過ぎるボクシングジム。そこには新井浩文がいて、やがて彼女は彼と知り合うことになり、すったもんだがあって安藤サクラは一人でボクシングを始めることになるのだが、という話。
 蒼井優が主演でもおかしくない話だが、全編に渋いブルースが流れ、作風はタランティーノかロドリゲスのごとくハードボイルド。そうして絶対に蒼井優がやれないことを安藤サクラがやる。全部やる。しかもそれを安藤サクラも知っていてやる。最高の汚れ役である。
 序盤の時点で美しく生まれなかった人間のハートをがっちり掴み、元無職や精神的無職のハートをがっちり掴み、中盤で初恋の破れたすべての者のハートまでをもがっちり掴み、それ以降、百円のようにどうしようもない人生をひっくり返そうとする、王子様なんていない、血まみれのシンデレラストーリーが怒涛のごとく始まる。失恋映画であり青春映画でもある。終盤は涙無しには見れない。安藤サクラのことが、この映画が終わる頃にはどんな男も大好きになっているだろう。

『ライオット・クラブ』(84点/100点満点中)

 賢くて、金持ちで、顔立ちの良い男は、性格が良い筈がない。そんな言わずと知れたアレをどこまでも映像で追求したのが本作だ。キャッチコピーは、「美しく気高く腐った男たち」。乙女のハートに突き刺さる寸文である。が、同性愛シーンは皆無である。
 本作の舞台は、現代のオックスフォード大学。在学生の中でもトップクラスで成績が良く、特権階級か富裕層の子息であり、美男子であり、そしてなにより「伝説になれそうな男」しか入れない、会員10名のみの、数百年以上の歴史を持つクラブがあった。それが暴動クラブである。
 志望しても入会できない。もしくは志望するがゆえに逆に入会が許されない、ファイト・クラブとはまた違ったその排他性ゆえ、活動内容は不詳ながら暴動クラブは学生も学長もOB・OGも、関係者の誰もが知る存在であった。現役の会員である大学生は360度どこから見ても美しく、傲慢不遜、そしてエリートの学生ばかりである。
 で、暴動クラブは結局何をするところなのかと言うに、晩餐会と称して、夜な夜なレストランに入り、国歌を歌いながら乾杯をしたのち、出禁になるまで酒を飲み、叫び散らかし、女とひたすらに乱行を繰り広げる、単なるクソガキのような集まりなのだ。そんな集団に勧誘された、純真無垢な新入生二人が本作の主人公だ。
 そのクソガキ感は、もはや親近感しか感じない設定である。えげつない男がえげつない厳格なルールのもの、ただただえげつない酒の飲み方をする。ハリー・ポッターの作品のような絵面で、ただただ下品な演出が続く前半はポップでロックでとても面白い。そうでありながら、全く親近感を持たせないのはその暴動クラブの全員が大金持ちの美男子であるということである。さらには彼らが、金を持たない大衆というものを蛇蝎のごとく軽蔑している点である。
 そしてそれを大衆芸術である映画で、大真面目に描いて見せた点に、本作屈指の新規性が輝く。
 大金持ちの気持ち、美男子の気持ち、ドエリートの気持ち、そんな知る由も無いし感情移入のしようもない全てが、泥酔した彼らの口によって語られる内に、劇は最悪の展開を辿っていく。どこまで笑えるか笑えないかで鑑賞者の品性が問われる、良いコメディだった。

『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』(80点/100点満点中)

 最も面白い邦画作品のジャンルは、コメディだということを何度も何度も忘れるのは、一邦人として度し難い逸失利益だ。
 『モテキ』が面白い映画だと知ったのは劇場公開の五年後、もしかしたら真木ようこがエロいかもしれないという淡い期待を抱いてレンタルした、その夜のことだった。顎が外れるかと思うくらい自分の予告編の見る目のなさ、コメディへの警戒感というものに失望した。その頃にはもう世間はとっくにモテキだなんだが死語になっていた。
 で、この映画も、めちゃくちゃ面白い。モテキと同じく、存在自体が阿修羅道、畜生道を彷徨ってると言って差し支えない、童貞が主人公の映画。
 地獄に落ちた神木くん演じる童貞が、なんとか現世復帰を目指して、長瀬君演じる鬼と一緒にギターを練習して、七回の輪廻転生を試みるという大筋。予告編でざっくり見せられるチープメイドな地獄のセットのせいで、クソつまんねえだろうな、というこちらの予感を、弩級の下ネタとアングラへの敬意とバカバカしい台詞と音楽満載の脚本演出で終始裏切りまくる。たった一人の人間の死を重厚に描き続ける邦画の中で、最も軽薄に一人の人間の死の、さらにその向こう側を執拗に描いた逸品と言っていい。仏教の無駄遣い、文化の無駄遣い、なのに時間の無駄遣いになった感じがしない。
 そもそも、実際のバス転落死傷事故で本作の公開が一年遅れた、という報道があった時点で、この映画がいかに当時公開されることが倫理や人道に反していたか気づくべきであった。

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