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『インターステラー』(75点/100点満点中)

 プラネタリウムに我々が行くのは、信じたい嘘を信じたいと思えるような時だ。どこにでも一人で行けるはずの私でもプラネタリウムはなぜか一人で行けない。信じたい嘘を一人で信じれるほどまだ強くないからかもしれない。

 地球が現実的に住めないようなレベルに達した近未来の世界では砂塵が世界を覆っている。したがって農作物は育たず、やがては太陽光も取り入れられなくなり、酸素もなくなり、死に至る。そんな舞台で娘と息子を持つ一人の父親がこの映画の主人公である。

 百億光年の孤独と言ってもいいようなこの映画は、移住可能な惑星の発見と人類補完計画のいずれかを実行しなければならない旅を、巨額の金を投じて描いている。惑星とは、ここでいう信じたい嘘に他ならない。
 クリストファー・ノーラン監督の世界観はそのまま彼の都市観が反映されていると言っていいが、この映画で描かれるのは彼の惑星観であり、その惑星はそれぞれゴッサムシティのように凶悪なのである。
 一度入り込めばそこでの数秒が地球での一年となったり、ブラックホールは黒色の水風船のように美しい佇まいをしていたり。およそそれに立ち向かう恐怖感を都度強いられる連続は、まさに宇宙に期待する寂しさや虚しさや語りえなさをどこまでも掬う詩情の連続である。木星に到達する前に、雨音を流す演出は非常に美しい。そうして知覚を越えたものへと突進していく暴力的な進行は、イカロスの愚行すら連想させられる。

 それでも父は娘を救いたい。そしてもう一度娘に会いたい。しかし刻々と会えない時間だけが過ぎていく。
 この宇宙旅行の中盤で、娘はいつの間にか父と同じ年齢にまでなってしまうのである。
 そしてビデオレターは受信できても送信はできない。娘は自分がもう死んでいると思っている。

 男は、美しい惑星旅行を、絶望しながら突進していく。

 ただの映画が重力を忘れさせることができると証明した『ゼログラビティ』に次いで、希望も夢もない宇宙側面を描いた『インターステラー』もまた重力を全く違った方法で語る。描かれる概念・概念・概念の連続。さらには次元をぶっ飛んでさらにぶっ飛んだ先に主人公は到達してしまう。映像体験というよりまさに世界で一番広い図書館に入り込んでしまったかのような果ての果ての果てを描く。この二作品はあと十年はきっと新しいまんまである。
 最後は愛へと着地していく物語はそれでもやはり賛否両論があろうが、どんなに否定しようと綺麗に最後は決まってしまったことは万人が認めざるをえない出来である。
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『紙の月』(77点/100点満点中)

 青春するにも金はいる。恋愛するにも金はいる。不倫するにも金はいる。自由になるにも。逃げるのにも。ただ愛されるにも愛するにも金はいるのだ。
 
 今となっては、なんだかとっても綺麗なお姉さんなのに、どうしてもその過去に、あるいは恋愛に、ものすごい闇を連想せざるを得ない宮沢りえが主演の『紙の月』は金というテーマで狂った愛を描く、邦画の新境地である。
 主人公の銀行員のパートタイマーである彼女は、ある日手持ちのお金がなく、やむなくほんの軽い気持ちで顧客の金を私用に使う。
 もちろん誰にもバレない。自分で穴埋めもできる。

 しかしその微額の金が、年下の男との不倫をきっかけに千円単位から万単位。そして十万単位、百万単位、千万単位へと、その可憐な一途さと比例するかのように罪の加速度を増していき、やがてその不正はもはや隠しようがなくなっていく。

 良い女は天国に行き、悪い女はどこへでも行くという言葉がある通り、意を決した女の覚悟がどこまでも悪を遂行できるかという話でもありながら、どうせ死ぬならただしたいことがしたかっただけというイノセントな彼女の欲望を、この映画は決して断罪しないのである。いや、むしろ誰が断罪できようか。
 後悔しないと決めた女の覚悟は恐ろしい。愛は金ではないが、金による愛は見えるのだ。そしてそれは、信じる価値があり、奪う価値があり、撒き散らす価値がその時あったのだ。
 怒鳴ることも泣き喚くこともなく事態を受け入れ、追っ手を振り切って逃げようとする宮沢りえは、悲壮なのにどこか幸福の絶頂にいるようで美しい。

 使われた金は決して自分のためではなく、誰かのためであったという他愛の精神からだったというのも、この映画が愛のなんたるかを堂々語る資格を得た理由のひとつである。

『フューリー』(80点/100点満点中)

 英国政府への政治的抗議のためにヴィヴィアン・ウェストウッドは戦車に乗って都市部へお出かけしたというニュースを見た時、やはりこのおばさんは只者ではないという思いを新たにしたばかりだが、そんないまや世界一可愛らしい使い方をされる戦車が、戦時中には最も恐ろしい兵器の一つとして数えられたことは常識であれど、その戦車の中にいた数名の男がいかなる恐怖と闘っていたかはやはり映画でなければ分からない。

 冒頭、静寂を切り裂く爆音から始まるだけでこの映画もまた只者ではないと気づく。のっけから戦場のど真ん中なのである。
 戦車映画『フューリー』は戦争パパという異名を持つ、もう久しぶりに抱いて欲しくなるくらいかっこよいニヒルで汚らしいブラッド・ピットと、そんな彼が率いる演劇仕込みのバキバキな俳優陣が戦隊となって最前線でナチスとガンガン戦う映画である。
 戦争映画と言えば、なんだか気づいたら人がばたばたと死んでいてこちらの感情痛覚が全く反応しなくなるという摩訶不思議な作用になりがちだが、戦車を画角の真ん中に置いたこの映画は、草叢に潜んだ敵の動向を一人見逃せば戦車と自分ごと即刻火の海になりえる緊張状況が上映時間ずっと続く。

 あるいはまたミサイルの弾道を、スターウォーズの光線ビームのように、彗星のような線形として描くことで、それが襲ってきたと気づいた時には逃げようと思っても逃げ切れずに着弾を待たざるをえない兵士の宿命性が強調される。

 ほとんど蚊も殺せないような最も若い善良な新兵に、丸腰の捕虜の殺害を命じるブラッド・ピットの残虐は、しかしそれが新兵の生きる唯一の方法なのだと言外の説得力で観客をこの戦争の共犯にしてしまう。そうしてブラッド・ピットがただただ真っ黒に哀愁をたたえた目で、ナチスの潜む、暗雲に押しつぶされたような大地を眺めるだけで、最も美しい印象画のような絵になる。そんな目で見つめられた新兵もまた圧倒的な成長を遂げていく。しかしそれは人間的な成長というより、生きのびるためだけの、戦争のためだけの成長であり、そしてそれはおそらくはこの世界には全く無意味な成長なのである。戦場で起きるあらゆるドラマも物も人もただただ無意味に期すことを、ブラッド・ピットが目だけで語る。もう一度言う。完璧である。
 つい先ほどまで冗談を言い合っていた仲間や自分が数秒後にはただの肉の塊となるのを避けるには、あんなこともこんなこともそうするしかなかった。そんな演出が言い訳染みず、なぜか懐かしい、しかし何度も読みたくなる小説のような味わいを持っている。好戦的な反戦映画とでも言うべきだろうか。いや違う。これは好戦映画でも反戦映画でもない。美しい戦車の映画なのだ。

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