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『神様なんかくそくらえ』(69点/100点満点中)

 すべてを失った人間に残っている「生の訴え方」は、死か、セックスか、幻覚か、その三つしかないと誰かが言った。
 たとえば自撮りはこの三つのすべてが同時に味わえる行為ではないかと私は思うことがある。最も美しい部分を自ら撮ることによって、その瞬間に自殺することができるのだ。そしてその遺体は、あるいは遺体の一部は、セックスアピールとして用いることができ、さらにはそれを公開することによって他者に幻想をもたらすことができるだろう。そうしてその幻想に自らを隠蔽させることができるのである。
 恋人と思われる男に「死ね」と叫ばれ続けながら、主人公の金髪の女性が手首を切るシーンからこの映画は始まる。殺すのが愛の証明だと思っている男と、死ぬのが愛の証明だと思っている女。このオープニングシーンで感情移入できるか否か、相手への愛をそれほどばかばかしい方法でしか証明できなかった経験者にしか、共感されえない危うい場面で本作は始まる。
 溢れる血に全身塗れながら病院へと運ばれる間、彼女はその男に、一緒に来てほしいと叫び続ける。しかしその男は来ない。彼女はドラッグ依存症であり、ホームレスであり、病院を出たらもう帰る家もない。頼れるのは売人のセックスフレンド、そして欲しいのはその日手に入る極小のドラッグ、それを手に入れる手段は万引きと盗品の転売だけだ。全く刹那的に生きている。彼女の恋は破れた。が、死なない。「死ね」と言ってきた男を、それでもまだ愛しているからだ。それでもまだ復縁の可能性を信じているからだ。
 そうして繰り返すドラッグ、セックス、犯罪。十年前の映像のような質感が、砂漠のように画面を揺らしていて、こちらまで渇きを覚えてくる。その渇きとは、まさに彼女の味わった渇きなのであった。
 驚くべきことに、本作は主演の女性が十五歳の時に経験したことを自身で記した自伝的小説が原作であり、事実主演女性はホームレスの経験があるという。 
 『Mad Love in NewYork City』という原作を『神様なんかくそくらえ』と訳してみせた配給会社は天才的であるが、「あなた以外は、全部ゴミ」というコピーをこの映画に付けたライターも天才である。そしてこういう天才的な宣伝が行われるとき、もう中身はなんでもいいやと思ってしまいそうになる。実際、そう思った。
 ロンドンパンクの映像古典ともなった『トレインスポッティング』の女バージョン、完全鬱恋愛バージョン、とでもいうべきだろうか。しかしあの底抜けの明るさも饒舌さもない。感情のすべてを、鋭い眼光とその眉、頼りない横顔だけで表現した主演のアリエル・ホームズは悲惨の極致まで行く。
 いつ死んでもおかしくないような生き方。厳密には、いつ死んでも問題ないと思えるような生き方。その生き方には、無駄がない。だから「あなた以外は、全部ゴミ」というのは極論ではない。ただの真実であり、その真実をドキュメンタリーにすると、本作のような全くポップではない恋愛映画が出来上がる。
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『ストレイト・アウタ・コンプトン』(75点/100点満点中)

 フリースタイルダンジョンの流行は絶頂期を迎えた。
 かつての反体制の代表格文化であるヒップホップ、そしてラップバトルは良くも悪くも液状化し、そして商業化されたといえる。
 ZEEBRAがその立役者になるとは到底予想できなかった。十数年前からヒップホップのアンダーグラウンド感を否定し、とはいえ放送禁止用語だらけのシングルを出して発禁・CD回収騒ぎも起こしたあの可愛らしいZEEBRAが、今や地上波の人気番組の司会をしている。彼がかつてはディスったKREVAはラップバトルを封印しポップなトラックメイカーとしても曲を出せば最も売れるヒップホップアーティストとなった。彼が公開処刑したKJは全く別の方向性を見出し今でもライブで精力的に活動している。ディスるとはつまり、相手の方向性を決定づける要因にもなりえるのは、とても面白いことである。ディスられた側も、アンサーしないことも一つのアンサーになるのだ。
 同番組をずっと見ているとディスるのがうまいのと曲作りがうまいのとはまた違うということがだんだんわかってきて面白い。
 
 ラップはもうアンダーグラウンドではないのだ。テレビで面白いものが見れるのはとてもいいことである。
 そしてそんなラップバトルを最初に描いた『8 mile』は不朽の名作だった。かつての殺し合いの解決がラップバトルだったということは見落とせない。そんな血で血を洗う言葉の戦争であるヒップホップアンダーグラウンド史、その元の元をたどれば、どこに行き着くのか。誰が主役だったのかを、といった根源的なドキュメントをこの映画は描いている。

 黒人が何人か道で集まって談笑しているだけで警察から職務質問や身体検査、解散命令を受けるという最悪な人種差別が横行する時代環境で、こんな最悪な街で車をぶっ飛ばしてる俺は最高にクール、だの、白人野郎の警察どもに中指を突き立ててやる、超かわいい姉ちゃんとその後ファックしてやる、といった叫びをビートの上でリリックに落としてラジオでヘビーチューン化させた伝説的なラップグループがいた。どんな声でもスプリットアウトするようにかっこいいセリフを吐き捨てれば、それだけで格好良くなるのがまさにヒップホップに許された特権だったのだ。
 同時代の才能は才能を呼び寄せた。
 音作りの才能、攻撃的な歌詞の才能、営業の才能、プロデュースの才能、ライブの才能である。
 しかし彼らもまた激し過ぎるバンドと同じ運命を辿ることになる。熾烈な反体制文化を築き上げたその頂点で、彼らが享受する贅はやがてその友情をもバラバラに引き裂いてしまう。そしてバラバラになった後も、それぞれの生き方の違いが克明に描かれる。

 この映画は日本での興行が見込まれなかったためか短期的な上映期間しか設けられなかった映画である。

 曲作りという、そんなにカジュアルにできるものでもないと思われた行為が、とてもチャーミングな欲望とありのままの叫びで成り立っていたのだということをこの映画は教えてくれる。
 彼らは社会をディスり、警察にライブを壊される。しかしそれがいまや伝説となっている。なにかをディスることが自分と他者を決定づけるのは、個人対個人間だけではなく個人対歴史間でもあるのだ。
 
 ちゃんと言いたいこと言えてるのかなと思った時に見ると望外の爽快感を得られる、そんな映画である。

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