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『フィフス・ウェイブ』(40点/100点満点中)

 忘れがちだが私たちは星屑であり、そして宇宙人である。仮に宇宙人が自己の種の生存の必要上、他の惑星を侵略したい場合、その星を傷つけずその現地人を最小限の力で最も手軽に排除するにはどんな手を使うのがよいか。という思考実験は恐らくどこかの宇宙人が現在進行形で考えていることかもしれない。
 その思考実験と結論とをそのまま贅沢に映画化し、世界崩壊系映画の語り口に全く新しいアプローチを出してきたのが映画『フィフス・ウェイブ』である。

 ある日宇宙船が襲来する。そこから引き続いて起こる停電、地震、津波、感染症。
 人類は次々と死に至る。宇宙船の目的は明らかに地球との友愛に置かれていない。むしろ人類の絶滅にある。

 次に起こる第五波とはなにか。そして仮にそれが分かったとして、なにができるか。

 この謎解きを担うクロエ・グレース・モレッツには『キック・アス』の戦闘力や強暴性はないものの、そのタフネスは銃を片手に怪我の足を引きずりながらも駆け回り、逃げ回る間に離れ離れになった弟の救出に向かわせる程度に強靭なままだ。

 宇宙人の第五波はまさに過去の戦争でも使われた手法であり、とても小さな例でいえば、社内や学内のサークルクラッシャーが行使すれば一瞬でそのサークルの崩壊が目指せる極普遍的、だがとても恐ろしい手段でもある。
 一見の価値は間違いなくあるものの、なぜか二度は見たくはならない映画だった。
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『レヴェナント:蘇えりし者』(65点/100点満点中)

 かわいいと言われると、照れてしまう男は案外多い。この言葉には、男はなかなか勝てない。スプーンを持つ時、人はかわいい。激昂していてもかわいい男はいる。はたまた、かわいいと言われないことに絶望する女もいれば、かわいいと言われ続けることに絶望する男もいる。かつてクラスメートからかわいいかわいいと言われ続けた私の友人の男性は、二十代になってから猛烈な筋トレを開始し、先日会ったらヒグマのようになって全くかわいくなくなっていたことがある。

 「かわいい」は人を狂わすのだ。
 それは私の友人しかり、そして本作主演のレオナルド・ディカプリオとそのキャリアしかりである。

 『タイタニック』や『ロミオとジュリエット』以降、ディカプリオの歴史はほとんど自己破壊の歴史と言ってもいい。
 金で人の顔をぶん殴ったり黒人を殺す白人至上主義者を演じたり男とセックスしながらFBI初代長官として監視社会を実現させたりと、彼のキャリアは憎まれ者を演じ、さらなる憎まれ者を演じるという自己否定の更新によって築き上げられている。この傾向はブラッド・ピットが『ファイト・クラブ』で成し遂げたイメージ転換の遥か上を上回る、そしてもはや長年続く執拗な自罰性だ。

 その自己憎悪の極限のようなものを私はこの映画に見た。
 息子を殺された父が、極寒の地でその犯人を追う。ストーリーは極単純だ。
 まさに冷房の効き過ぎた部屋で眠った時に見るような悪夢が繰り広げられる。

 熊に襲われ、生き埋めにされ、現地民に襲われ、逃げても逃げても追われる。またしても濁流に流され自己の映画史上二度目で溺れかける(見ようによっては三度目とも四度目とも言える)ディカプリオはもはや鬼である。鬼であるがゆえに、彼は常に映画を食ってしまう。木村拓哉が木村拓哉にしかならないのとは遥かに別次元に、さらには高次元に、ディカプリオの呪いはもはや複雑に捻じ曲がりすぎており、その映画は良くも悪くもディカプリオの映画でしかなくなってしまう。

 この人はもうどうなってしまうんだろう。かろうじて人間の形をなんとか留めてるようにも思える。
 それでも次の作品がすぐに見たいと思わせてくれる。
 彼が出てるというだけで、金を出したくなるのはとても至福なことだと思っている。

『アイ・アム・ア・ヒーロー』(80点/100点満点中)

 ゾンビ映画の主人公は金髪で白いタンクトップを着た女だと決まっているのは、白い服と金髪に血の色が映えるからに他ならない。そして武器系統にやたらと強い黒人。最初は嫌な奴だったのにいざという時には火器系統でなんとかしてくれる移民系。頭がよいだけで臆病な白人男性。やたらと胸がデカくてセックス要員で死亡フラグをビンビンさせている派手化粧のブロンド。これらはいずれもゾンビ映画に欠かせない必要不可欠要素であった。
 外国のゾンビ映画はつまり外国の歌舞伎劇ともいえる。旧き良き伝統を引き継ぎながら「全力で走る」という『ドーン・オブ・ザ・デッド』の革新があり「個体と個体が重なり合って壁すらも超える他愛の心」という思念をもゾンビに付加させた『ワールド・ウォー・Z』があった。
 だが、この『アイ・アム・ア・ヒーロー』はその外国の半世紀以上のハードルをほんの数点の演出で軽々と越えてみせた。
 主人公は「自分は世界の脇役で、自分自身の人生でさえ主役になる事はない」と考えながらも漫画家になる夢を捨てきれない、そうして三十歳を超えてしまった冴えない男である。恋人だけを愛しているが、その恋人と同棲しているアパートもぼろぼろで、その恋人との関係もとっくの昔にぼろぼろになっている。もちろんテレビの報道番組で最近犬が人間に噛まれたというニュースをやっていることさえ気づかない。そんな恋人と喧嘩した翌朝、謝りに帰ろうとしたところ、恋人は恋人でなくなっていた、というシーンからラストまで、富士急ハイランドのドドンパのような速度で世界は崩壊していく。
 邦画歴代史上トップクラスに、本作のグロシーンはグロテスクである。R15指定だが、その血の量や精神的なキツさから言って実質R18級である。これだけでも衝撃だが、この映画、日本人が潜在的に最も生理的に嫌悪する「ぼろぼろのアパート」のような日本的陰影を随所に散りばめている。映像表現もそうだが、言語表現がそこに加わる。本作のゾンビは人間だった頃に繰り返し口にしたセリフをゾンビになっても繰り返すのだ。すなわち「お疲れ様です」「お世話になっております」「いらっしゃいませ」「お釣りになります」といったセリフをそれぞれのゾンビがそれぞれの呪いを持って無意味に何度もつぶやきながら、突進してくる。ゾンビ、というより、駅前のサラリーマンやスタバの店員がちゃんと個性的なまま襲ってくる。殺す側にとっては悪夢だ。一押しのゾンビは「ママァ~」と笑いながら長沢まさみを襲うゾンビだが、あれは夢に出てきてもおかしくない。生理的に嫌なゾンビは日本でしか描けなかった。それがさらには呪怨のアレのような動きもするのである。
 クールジャパンのひとつに間違いなく日本のホラーが存することをこの映画は証明した。単なる社交的な挨拶も、三回繰り返せば狂気になる。その日本の気持ち悪さがなによりゾンビ的だと映像で諷刺してみせた堂々たる諧謔の、しかし笑えない爽快さは、主人公のショットガンや血しぶきと一緒に百花繚乱のように咲き乱れ、ホラーファンとしては感涙を禁じ得ない出来。娘ができたら一緒に見たいと思う。

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