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『日本で一番悪い奴ら』(70点/100点満点中)

 一番純粋なやつが、一番危険である。たとえば牛丼屋の牛丼はなぜ安いのか。めちゃくちゃ美味しいと思ったものをめちゃくちゃ安くめちゃくちゃ多くの人に食べさせられないかという戦後世代の起業家の燃え滾るような理想がそこにあったからだ。だからそのささやかな幸福に奉仕する者の給料も、休憩時間も、ささやかで然るべきだという考えは、まだこの国のどこかにある。
 だからいつまでも若者には金がない。しかし情熱はある。その情熱が良い方向に向くか、悪い方向に向くか、その良悪が本人にはわかっていない場合どうなるか。
 猛烈な成果主義・結果主義・効率主義が、その過程もそれに身をささげる本人すらも破壊しつくしてしまう逆転は、悲惨なのに、どこかいつの時代も面白い。地獄への道は善意で舗装されているのだ。
 柔道しか取り柄のない諸星要一(綾野剛)は北海道警察に入り刑事となる。名前に一が付き、名前に星も付くこの主人公は、もちろん一番の刑事になりたい。どこからどう見えてもジャイアニズムを感じる先輩の悪徳刑事は彼に言う。「真面目に仕事するより、現場でS(スパイ)を作って点数稼げ」。このアドバイスをもとに、名刺を作り、諸星はヤバそうな場所に飛び込み営業をしていくのだが....。
 アッパーからダウナーまで振れ幅が広すぎる綾野剛がアッパーなものをキメてアッパーに現場に入り捜査令状もなく被疑者を殴り倒しさらなる犯罪の証拠を押さえようとする最初のシークエンスは非常にコミカル。嘘のようだがすべて実話らしい。サラリーマンには売上月次ノルマがあるようにこの狂気の巡査にもノルマが課される。今月は七百万の売上を確保しなければならない、といった風に、今月は拳銃をあと十丁は押収しましょう、といった意味不明な上司の通達は、しかし劇中意味不明に見えなくなるほど常態となっており、その命令に従って拳銃をロシアから暴力団を通して主人公は購入し警察へと納めるのである。彼の評価は上がる。立派な警察になってやると言いながら風俗嬢との騎乗位に耽るシーンでは映画館では爆笑が起こった。
 クスリ、セックス、拳銃、金、クスリ、セックス、拳銃、金、という永劫回帰に陥った綾野剛は元から狂っていたものの、とうとう人間に戻れなくなっていく。その過程は大変楽しい。
 警察内部がまったく通常の会社と変わらないとしたならば、この少年のような主人公は、おそらく警察ではなくどこの企業に行ってもおそらくそこで最大の成果を残したはずである。しかし一番仕事ができる奴が一番サイコパスに近いのもまた事実である。そして頭の狂っている奴は、自分が狂っているとはちっとも思っていない。だからこそ狂っていて、かわいいのである。
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『10 クローバーフィールド・レーン』(40点/100点満点中)

 なんだかいきなりよくわからないものがやってきて、とりあえず走って逃げたが、結局それがなにかは分からず、誰も助けてはくれないまま、街はぶっ壊れ、逃げ場もなく、泣き叫んでいる内にナイフで切ったように世界も登場人物も終わる前作『クローバーフィールド』は、なんだかよくわからなくなりたい土曜の夜九時になんだかよくわからない人と見たい映画としては間違いなく傑作だった。世界はやっぱりこんな風に滅亡してほしいと思う人類の気持ちを母のように抱擁し、あるいては少年のように純粋に楽しもうという気にさせてくれる夢のような映画であった。
 その次回作が本作である。同じような演出はもう通じない。だからといってそれはやっちゃいかんだろう。ということをまっすぐやってしまったのが本作である。
 郊外を車で走行中、トラックに突っ込まれて失神したミシェル(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)は目覚めるとどこかの地下室に閉じ込められている。そこに現れた元軍人の大男・ハワード(ジョン・グッドマン)は、「もう二度と地上の世界に戻ることはできない」「なにもかもが終わった」「おまえはこのシェルターで暮らしたほうがいい」と繰り返す。その地下室に地鳴りのように響く、正体不明の轟音。そして同じく閉じ込められた、一人の若者。ミシェルはそのシェルターからの脱出を試みるが...。
 メアリー・エリザベス・ウィンステッドは見れば見るほどに愛おしくなる顔をしている。 『ファイナル・デッドコースター』『デス・プルーフ in グラインドハウス』『遊星からの物体X ファーストコンタクト』などここ十年間ずっと死そのものや変なおっさんや物体Xに追い込みをかけられ続けた輝かしいキャリアで、本作でも惜しげもなく披露される恐怖にのけぞる小動物のような叫び顔は超チャーミング。うわあがんばれがんばれと叫びたくなる感じにさせられる。
 しかし、だ。やっちゃいけないことを脚本はここでやる。
 たとえば傷もまだ癒えない間にミシェルは最初の脱出を試みようとし、ハワードに見つかってしまう最初のシークエンス。我々は一作目で自由の女神の頭部がパーティー会場前まで吹っ飛んでくるすさまじいサプライズに曝されたわけであり、デブのオッサンが近寄ってくるそのブーツの足音だけではもうちっともビビらなくなっている。この鼻息荒いデブのメンヘラは、まともなようでいてまともではなくギリギリのラインで信用できる人物なのかそれともただ監禁がしたいだけの人物なのか、その疑惑を終始メアリーに投げかける。だが、我々の脳裏には常にあのカマキリのような宇宙人の姿がある。デブのメンヘラのおっさんは怪しいが、宇宙人ほどではない。そういう理性の鬩ぎ合いがむくむくと沸き立っては収まるのを我慢していると、人生のうちの九十分を無駄にしてしまうのである。
 デブのメンヘラオッサンが襲ってくる物理的な恐怖と、外を出ても何が起きるかわからない精神的恐怖は、上手に混ざり合って主演の表情をくるくると変えていく。それはそれで楽しい。とはいえ偉大な傑作である前作のその後の話として、この脚本上の一つの大胆な裏切りを母のように許せるか、少年のように許せないかで、この映画への評価は大幅に変わってしまうかもしれない。

『貞子 vs 伽椰子』(55点/100点満点中)

 その映画の予告編が映画館で流れて、極小規模な爆笑が起こるような映画は年に一作あるかないかだと思う。それはつまり映画の予告編が大抵面白くないか、映画の予告編を見る時の館内の視線はほぼかなりの低温であることを意味している。かつて北野武が笑いと暴力は紙一重だと喝破した。だが、笑いと恐怖も紙一重ではないか。もはや笑うしかないホラー映画とはつまり、本作のことである。
 別々の地域に住む縁もゆかりもないふたりの女子高生は、お決まりの死亡フラグをばきばきに踏み込み、各々貞子と伽倻子にガッチリ睨まれて、さあどうする、という話だ。駄作にしかならないはずのプロットも、しかし貞子と伽倻子の持つ重厚な歴史的風情がミートソーススパゲティでいうミートソースのような作用をもたらして、不思議な味わいになっている。
 もうそこにいるだけで死ぬまで女としてのハッピーオーラ感が半端ではない二人のモデル、山本美月と玉城ティナは、まさに貞子と伽倻子にぴったりの被害者だと言える。この二人を引き合わせる謎の除霊師安藤政信は、なぜこの役を引き受けたのか謎なくらいうさんくさい。
 そうして前半中盤のほのぼのとした地獄展開が続いて、いよいよ伽倻子と貞子のご対面シーンは、なぜか幸せで一杯な気持ちになる。結構好きな友達と結構危ない友達とをうまく居酒屋で引き合わせたかのようなカタルシスがある。

 ホラーは日本の国技だ。
 そしてこの映画のオチはまさに潜在的に、そして国民的に求められていた最高の解決法が提示される。お得なセット感である。
 本作は余りに馬鹿馬鹿しいのでTSUTAYAではコメディコーナーに並んでもおかしくない初のホラー作品になるかもしれない。あのなんだか微笑ましい感じはなんと言えばいいのだろう。このジャンルに日本ホラーはまだ未達であったということに驚く。
 できれば異性か同性の友達とアイスでも片手に笑いながら見たい作品であった。

『火花』(90点/100点満点中)

 中央線に感じるノスタルジーには身を引きちぎられそうなものがある。吉祥寺や高円寺や中野荻窪に私は住んだことがない。しかしなぜか途方もなく懐かしく感じるのだ。
 この場所が形成した文化や曲によって、東京に呼び寄せられ飛び出てきた人も一定数いるに違いない。
 誰も気取ってはおらず、かといって温かい訳でもない。完全な他人でもなく、そしてそのまま他人でありたいともどことなく思わせない。中央線には山手線の中には決して形成されなかった悲哀があると感じるのだ。そしてもう二度とそれに触れることができない悲哀を、あの方向へと伸びる東京の路線図を見る度私は思い出すのだ。

 ドラマ『火花』は、一個の映画のような出来である。なのでここにレビューする。
 地上波ドラマとこの系統のドラマが決定的に違うのは、ほとんどの撮影をゲリラ的に行った点にある。通常、スポンサーと競合する企業の名前が付いた商品や看板は絶対に映してはならない鉄則が『火花』には適用されない。だから、東京が東京のままであり、ただ主人公が歩く街並みをそのままにカメラは追うことができるのである。この利点は大きい。映像には、リアリティしかないのである。

 売れない芸人である主人公は、一人の先輩芸人と夜の花火大会で偶然出会う。余りにも世俗とかけ離れたその芸風に完全な才能を認めた主人公は、その先輩と何度も会う内に、次第に売れ始めるようになるのだが、という物語。

 『火花』は芥川賞を受賞している。
 有名な芸人が受賞したことにより文壇への批判は当時轟々となった。商業主義だと叩かれたのである。が、原作『火花』はまさにその商業主義と髪をかきむしりながら、仲間を殺しながら、そして自分や先輩をも殺しながら戦う一人の青年が主人公の話なのだ。当時の批判は、筋がまったく通っていない。
 
 同じように、この『火花』の主人公はなにも筋の通らない芸人の世界でもがく。自分の信じたものが受け入れられず、自分が憎んだものが受け入れられていく芸人の恐ろしい現実が、たとえば楽屋裏の舞台や舞台終了後の飲み会、中央線の街並みや新宿の冷たさを背景にして繰り広げられる。これは芸人の話でありながら、なにかを作らんとして絶望するどこにでもいる若者の話であり、そしてやりたいようにやるのがいかに難しいか、好きなことで生きていくのがどれほど難しいかという話でもある。あらゆる不条理に揉まれながらも、信じていたものが壊れていく姿に涙を溜めながらも、それに対して悪足掻きをやめない主人公は、まさに花火を夢見る、線香花火の火花のように頼りなく、そして美しい。

 鑑賞後、くだらないテレビをつけてみる。そこには芸人がばか騒ぎをして笑っている。
 しかし、くだらない芸はあっても、くだらない芸人など一人もいないと感じさせてくれるのがこのドラマである。

 映画と言うにはあまりに長い作品だが、『火花』は完璧な東京百景だった。

『デッドプール』(40点/100点満点中)

 正義などはもはや語られなくてよい。と思う年齢になった。
 いや、語られてもいい。が、それが説得力を持つのは、あるいは自分の心を打つのは、およそ本人の私怨が存分に爆発させられているような姿を見た時だ。
 スパイダーマンやバットマンの宿命観や義務感、X-MENが背負う被差別の怨恨と克服、アイアンマンのスノビッシュなノブレス・オブリージュ的態度、ましてやスーパーマンの地球規模の哀切と憂鬱。これらのどれもがいまいち刺さらない世代は、一定数存在すると思われるのである。なにせ話があまりにデカすぎる。その話がアメリカでは刺さりまくってるんだからそれはそれで病的とも言えよう。それぞれのスーパーヒーローの「呪い」のような感覚は、しかしこの日本ではいずれもペプシのキャップやキーホルダーやTシャツのロゴのように、遠いなにかであると私は考える。
 そんな日本のごく一部の疲れ切った層にとって、デッドプールはまさに完璧な映画といえるかもしれない。
 なぜならデッドプールはすでに死んでおり、さらには死にたいとも思っており、死ねないから冗談しか言わないようなことになっており、正義や悪などもなく、金や私欲のために動き、そうして本作においては画面にはただ血と肉片とブラックジョークだけが飛び交う映画だからである。
 享楽的な元傭兵の人殺しが赤色と黒色のやたらとかっこいいスーツを身にまとって、ルンルンとマシンガンと日本刀で人を殺していくのをただ眺める、ポップコーンとコカコーラがほぼ必須の映画である。なにかもうものすごいストレスにさらされたときに見ると、ふっと心が軽くなるような、グロテスクな映画なのに優しい。ブラックジョークは冴えてたり冴えなかったりするわけだが、笑おうと思ってみたら笑える。笑えねえなと思ったらちっとも笑えない。精神的なリトマス紙としてちょうどいい娯楽映画といえるかもしれない。
 唯一の不満は、いっそもうR15などでお茶を濁すのではなく、R18にしてとびっきりにエロく、そしてもっとグロくしたらよかったのではないかと思ったことだ。
 本作では首や脳漿はワインボトルの栓のように景気よく撥ね飛び散ってはいくものの、やはりまだ優しさを感じた。デッドプールという異様なキャラクターをコミック実写化史から際立たせるのには十分ではあったものの、映画史から際立たせるにはあとはセックスとか死体の細部の表現が足りんのである。じゃあ別の映画を見ろよという話だが、デッドプールのことが好きなんだ。だからこそもっとやってほしかったという念がぬぐえない。私はコミックの実写化ではなく、映画として気持ち悪く、そしてすごいものが見たかった。

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