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『ジェイソン・ボーン』(10点/100点満点中)

 ジェイソン・ボーンにジェイソン・ステイサムは関係ないしそもそもジェイソン・ステイサムは出演すらしない。しかしこの映画に言及するにあたってはジェイソン・ステイサムの天才性にやはり触れざるをえない。ジェイソン・ステイサムといえばジェイソン・ステイサムでしかないが、それがどんなに重要なことか本作を見て思い知らされた。

 ジェイソン・ステイサムは最初から誰に何を見せたいか明確にしている。そしてそれを愚直に繰り返し続けたのである。劇中、人を殴ったり蹴ったりはするものの、彼は殴られたり蹴られたりすることはほぼない。

 そんなことはスティーヴン・セガールがとっくにやり尽くした。
 しかしあえて今日も彼はやるのである。楽しそうにやるのである。これしかないと言わんばかりにやるのである。自分探しだなんてなまぬるいことをジェイソン・ステイサムは最初からしない。いまこの瞬間相手にとって恐怖される彼そのものが彼なのである。
 同じことを続けるのがいかに大変か、そしてその伝統を先代から引き継ぐということがいかに新しいかを、我々はジェイソン・ステイサムに見るのである。

 で、結論から言うと『ジェイソン・ボーン』はつまらない。
 ジェイソン・ステイサムの人生の方が、余程ジェイソン・ボーン的である。


 冗談抜きのスパイ映画としては初期作の出来が図抜けている。単なる洋書やボールペンが武器になるという驚きがあった。が、今回は時代背景を鑑みてか、ほとんどの事件が現場ではなくサイバー上で行われる。しかしサイバー上でなんでもできる、ということはもう別にアクション映画に言われなくても知っとるのである。
 従来通りマット・デイモンは悲しい時も嬉しい時もハムスターのような真顔で貫く。長い長い自分探しもそろそろ終わりを迎えようとしている。であるからして楽しむべきは肉体と肉体のぶつかり合いかと思いきや、今回そんなものはほとんどない。せいぜいオッサンとオッサンが知的に殴り合う場面がごく稀に挟まれる。
 ただそのオッサンはみなセクシーだ。
 ボーンに恨みを持つ政府下の殺し屋にヴァンサン・カッセル、狡猾なCIA長官はトミー・リー・ジョーンズで、見るからにエロくて渋い男が冷酷に仕事に邁進していく姿は確かに良い。だが、もうそれだけである。

 派手なアクションなのに、アクションが九十年代のそれで、これまで何度もどこかで見たのに、なぜいまこれをこれだけの金をかけて作ろうとするのか理解に苦しんだ。ギリシャの暴動の最中、火炎瓶が飛び交う前半の街は最高だが、それ以降は特に驚きのないシークエンスが続く。至って退屈である。まるでジェイソン・ステイサムの映画のようである。しかし、ジェイソン・ボーンより、現実のジェイソン・ステイサムの方に何十倍の誠意と狂気を、この秋静かに私は感じたのである。
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『怒り』(90点/100点満点中)

 映画『シン・ゴジラ』『君の名は。』の映像的な派手さやファン層の絶賛に押されて、一向に目立たないことになっている映画『怒り』は邦画悪役史を塗り替える傑作かもしれない。
 ある八月の暑い日、閑静な住宅街の一軒家で夫妻が惨殺される。被害者の血で犯人が現場に残した『怒』という文字。警察は指名手配を開始する。しかしその殺人犯は逃亡したまま一年間検挙に至らない。そして千葉・東京・沖縄に、その殺人犯とそっくりな顔を持つ三人の男が現れる。
 殺人犯は、松山ケンイチか綾野剛か森山未來である。黙って突っ立っているだけでただでさえ怪しいこの三人は、劇中では寡黙だったりシャイだったりゲイだったり秘密主義者だったりと見るからに怪しい。『デトロイトメタルシティ』・『日本で一番悪い奴ら』・『セカチュー』を演じてそんなパーソナリティをされたら怪しすぎるのだ。だからもう疑わざるを得ない。こちらとしては探偵にでもなった気分でこの三人の内の誰が殺人犯なのか、その横顔や行動や発言の綻びからなんとか判断しようとする。しかし犯人は一人なのだ。逆を言えば犯人ではないのに犯人のように扱われることになるのは、このうちの二人なのである。誰が犯人か、もしくは実は誰も犯人ではないのか、いや、誰も犯人でなければいいと思わせる丁寧で狂暴な誘導は劇中随所に現れる。
 妻夫木聡と綾野剛とのセックスシーンは見事。それが同性愛であることを忘れさせるほどだった。この二人は痛々しいほどエロい。清楚が売りの宮崎あおいは冒頭から歌舞伎町の風俗嬢としてメンタルが壊れきっている。現在進行形で純粋無垢の代名詞となっている広瀬すずは端的に言って、沖縄で起こりえることとしては最も酷い目に遭う。あたかもそれぞれの俳優がそれぞれのキャリアイメージに元から怒り狂っており、この映画を通してそのキャリアの全破壊に挑んでいるかのようだった。登場人物のほとんどは怒り狂いながら、泣き叫びながら絶望的な結末を迎える。人を信じたから。あるいは、人を疑ったからだ。じゃあ結局人はどうすればいいのか、どうすればよかったのかという人生訓のような回答をこの映画は用意しない。そこに邦画の可能性を見た。重厚にして爽快なバッドエンドである。
 冒頭に述べたとおり、この映画の最大の魅力は、この映画の殺人犯である。『スーサイド・スクワッド』で悪に悪を期待して裏切られた映画ファンは、『ダークナイト』のジョーカー以上の普遍的で最悪な悪をこの映画で目の当たりにすることになる。ほんとうの殺人とは、人を殺すことではなく、人の不幸を笑いながら見ている、どこにでもいるような人間の行為なのかもしれない。
 デートには絶対に適さない。家族で見に行くのも絶対に絶対に適さない。そんな邦画がこれからもたくさん現れることを祈る。

『君の名は。』(65点/100点満点中)

 映画の秋、読書の秋、食欲の秋といわれるが、秋でなくても、映画は見るし読書はするし腹も減る。ロックは死んだと言うような人間はただ今のロックに付いていけなくなっただけだろう。いつの時代もなにかは勝手に始まるし、誰かが何かを殺そうとするし、それはいつの間にか死ぬし、実はまだ死んでいなかったりする。
 『君の名は。』は東京に在住する男子高校生と田舎に在住する女子高生の身体が、ある日突然入れ替わるラブコメの体裁をうまく取っている。互いの姿を男女は見たことがない。しかしスマートフォンやアプリを通してコミカルに、そしておよそ他人とは決して言えないほどの精神的繋がりを獲得する二人はまさに現代的な恋愛の変遷を辿っていく。言葉だけで繋がっている我々は、言葉だけで飽きたらず、会おうとする。しかしこのふたりは会えない。なぜならすでに一方は...。
 予告編で観客が認めたあの美しい異常な天体現象が、本編では一瞬にして観客を鬱にさせる要素となる洒脱でアクロバティックな展開はまさに監督の妙味。いつまでも好きな人がいるのに忘れられない主人公を描いた『秒速5センチメール』になんのハッピーエンドも残されていなかったことや、日本人なら誰もが脳裏で一度は握りつぶして忘れようとしたあの情景を、この映画はたった一瞬間で感情的に復元させ再起させ追体験させ絶句させる。俯瞰的に、そして穿った見方をするならば、と同時にこのファンタジックな天体現象は、ジブリ的な懐古主義・自然主義にも文字通り隕石を落として一旦破壊しようとするのである。その思い切りの良さたるや、おそらく東京を愛してやまないこの監督の狂気と覚悟を感じた。
 一方で、この監督は途方もなく優しい。LINEの履歴が消えれば、親指ひとつ動かせば、相手とつながっていた証拠も、これからつながる可能性も永久に消去できる時代を、あの恐ろしいほど綺麗なアニメーションで鮮やかに描く。そんな現実的な悲惨を前に、主人公は携帯で誰に宛てたわけでもないメールを打つ鬱展開に自らを貶めない。戦うのである。携帯電話がなければ恋愛もできないような時代でも、ただ、「会う」ということがいかに大変かという主題にこの映画は真正面から戦う。その勇気が素晴らしい。
 まさにプラネタリウムと同程度の値段で、プラネタリウムのような映画を味わいたいと思うならば打ってつけの映画だった。恋愛映画を見倒しているような重症な映画ファンにとってはこの映画の恋愛要素に新規性はないが、それ以外の要素に、事件性は十分あるといえる。

『スーサイド・スクワッド』(25点/100点満点中)

 映画館にいると、あ、いま、観客がこの映画を諦めたな、という空気感を肌で感じる時がある。あの感触はいつも面白い。面白いのだが、つまりそれは残された上映時間中、もうずっとその映画がやばいということである。そしてその映画がやばいという話をしなければ投資した分の損失は到底回収できないということでもある。
 本作は、往年のアメコミの悪役が政府のとっても怖くて悪いオバサンによって減刑を取引条件に、さらにもっと怖くて悪い奴のところに派遣されドンパチやって頂きましょうというブラック企業的な映画である。『バトルロワイヤル』のように悪役には首に爆弾が仕掛けられ、逃げようものなら爆破するぞと現場監督の軍人が悪役を脅す。その軍人ですら政府高官のオバサンによって脅されている。実質無給無休、残業手当などもなく、成果報酬も少ない。ブラック企業的な映画と書いた。ブラック企業諷刺的な映画とは書いてない。つまりそういうことである。そのまんまブラック企業。そのまんま和民。そのまんまなんか働いたしなんとなくハッピーになりてえな、と悪役が言っている。いや、わかる。気持ちはわかるんだ。でもそうじゃない。悪は悪でいてほしい。もうなに言うてくれとんねんという感じである。ただでさえ泣ける社会で、スカッとしたくて見た映画に、特に爽快な場面が用意されていないとなると、『号泣する準備はできていた』的な状態にならざるを得ない。
 映画『ウルフ・オブ・ウォールストリート』でビッチな金髪婦人を演じたマーゴット・ロビーは、ジョーカーの相手役としてただただケタケタと笑いながら金属バットを振り回すところが可愛くて素晴らしい。こういう人になら殴り殺されてもいいやと思えるので、絶妙に敵がうらやましくなってくる。どことなく土屋アンナを連想させるカーラ・デルヴィーニュもくねくねしながらもなんかキモいくらい強い。なんでこんなにキモいのか、どうしてそんなにキモいことにならないといけなかったのか、忘れてしまうくらい他の悪役は魅力がない。この映画はもうこのふたりの顔と身体しか見るべきところがないのだ。しかし誰もそんなに脱がない。一度脱いだ人は二度と脱がなくなる。
 来年公開のDC映画はこの『スーサイド・スクワッド』への反省からか、バットマンがまた新たな団体を作るらしい。『ダークナイト』以降の不作を訴える鑑賞後の観客にビールの一杯でも奢りたい気持ちになった。悪とは、なにかを考えた。この映画は悪者たちを銘打ち全面に出しながら悪者は悪者ではないと言いたかったのかもしれない。しかし見たいものはそれではない。なにが正義かもわからないが、なにが悪かは分かっていて、それでも平然とその悪を行使する悪が見たいのだ。そしてその悪が一同に集まるとどうなるか。その限界が、その映画文法的な帰結が本作だったとはまだ思いたくない。

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