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『何者』(80点/100点満点中)

 就活は、何者にでもなれる最後のチャンスであり、そうして何者にもなれそうもないと絶望する最悪の時期でもある。あれは一体なんだったのかと振り返れど、なんだったのかちっとも分からない。五歳の時からパイロットを目指して、飛行機のエンジン音を聴いただけでその機体がどこのなんの飛行機かを言えて、夜の羽田空港の夜景が美しいから、と私をドライヴに連れて行ってくれた友人がいた。鼻の骨が曲がっていたら身体試験に落ちるから。といい鼻骨の手術まで受けた彼は、航空会社の最終面接にすべて落ちて、今は千葉でバスの運転手をしている。私はなんだかすべてがばかばかしくなったのを覚えている。
 就活への呪詛、欺瞞への弾劾は、もうすでに語り尽くされたかもしれない。
 しかし本作『何者』は、その就活への呪詛を、そっくりそのまま、現役の大学生たちに投げ返す爆弾のような映画である。青春群像劇というより、ホラーに近い。主人公の大学生を演じる佐藤健が抱えた真っ黒な闇は、もうあまりに救い難い。それでいて誰もが持ち得る闇なのだ。その闇の精度と強度が高過ぎる。その闇は、一見最も社交的でありながら、最も反社会的な何かなのだ。

 『何者』の登場人物はみな就活生だ。
 それぞれがそれぞれの熱量や虚栄を持って就活している。その登場人物も典型的だ。ツイッターで頑張ってますアピールをやたらとする奴、帰国子女としての価値を完全に活かし倒してやろうとする女、悪態をつきながらなんだかんだ飾らず就活して上手くいく奴、就活なんてしょうもねえと笑いながら小説を読みふけってクリエイター気取りをキメる男。
 その面々は痛々しさがぶすぶすこちらに突き刺さってくる超リアルな大学三年生たちである。はっきり言って現代の就活を前にして特になんの取り柄もない男女が取れるアクションはすべてこの登場人物たちが取ることになる。

 主人公の佐藤健は演劇サークルに所属していた。しかし、いまは引退し、就活に専念しようとしている。
 
 そんな彼らと佐藤健は、ひょんなきっかけで就活対策本部なるものを結成する。
 主人公はあくまで良い奴だ。佐藤健は友達の相談に乗ってやったりちょくちょく周りの動向をツイッターで確かめたりと、なんだかんだ周りが見える良い奴なのだ。
 しかし劇中の彼の目はどこまでも虚ろだ。誰といてもふとした拍子にスマートフォンの電源をいれ、他人のツイッターやブログを無表情でチェックする。その間がいちいち恐ろしい。あくまで自然な素ぶりなのだが、ここまで多くの回数、劇中スマホをチェックする登場人物はジャックバウアーを除いて本作が初めてではないだろうか。注目すべきは、彼がスマートフォンを開くタイミングが、全く脚本の文脈上関係ないタイミングであるということである。そうして目の前の景色から目を逸らした後、主人公は友人たちの会話へと何食わぬ顔で戻っていく。
 
 そんな一瞬の佐藤健の演技は、猛烈に制御されている。るろうに剣心は男前が男前として頑張っている映画だとすれば、この佐藤健はただの平凡な大学生がただの平凡さを一生懸命装うのである。まるで真逆の論理で動いており、そこに本作の恐ろしさがある。一挙手一投足に、今にも爆発しそうな殺意のようなものを主人公は隠匿しているのだ。
 強烈な悪意は静かに執行されるものである。彼が友達を見る目。応援しているように見えて痛罵しているようにも見える。話を聴いているようでまったく聴いてないようにも見える。頷いているように見えて憤怒しているようにも見える。同情しているように見えて笑いを噛み殺しているようにも見える。そんな危険な移ろいが、彼を劇中、就活生として、大学生として、もしくは一人の人間として、最も恐ろしい悪魔なのだと証明されるまでの過程は非常にスリリングで、哀しい。

 この映画は就活に対して、一見なんらの回答も用意しない。しかし本作は、佐藤健という、やりたいことはわかっているのに、そのためにやれることが見つからないしやることもできない、他人のだめなところはすべて見えるのに自分のどこがだめなのからまったく見えてこない、どこにでもいる大学生を描き、強烈な断罪を加えることで、真っ当な人間に帰らせようとするかなり痛烈な教育映画でもある。
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『キャロル』(85点/100点満点中)

 クリスマスシーズンの百貨店でサンタハットを被りながら贈り物ギフトのコーナーで売り子のバイトをしていたら、毛皮のコートを着て赤い口紅を引いた金髪の完璧なケイト・ブランシェットが突然やってきて、ギフトにはなにがいいかしらと訊いてきたた後、あら、その帽子可愛いわね、と褒めてくれた日には、自分が男であろうが女であろうが膝から崩れ落ちてしまうに違いない。気品と自立と悲哀に溢れたその女は、しかし愛用の手袋をレジの前に置き忘れて行ってしまった。彼女が既婚者であることは短い会話の中でもう分かっている。どこにでもいそうな女ではない。どこをどう探してももう絶対にいない女である。自分は女だとする。さて、どうするか。もう、どうしようもないのである。

 本作は女同士の恋愛映画である。
 華美な金色が眩しい装飾品、五十年代のどこか朽ち果てたようなボーカルジャズ。
 その風俗からして同性愛が精神疾患として取り扱われてしまう時代、いかに愛し愛された女同士が添い遂げるかを極めて丁寧に描き切る。

 劇中、レズビアンという言葉を誰も使用しない。
 それは脚本の明確な意図か、原作に忠実か、当時の時代言語に配慮してなのかは分からない。
 しかしこの映画は恋愛映画であって、同性愛の映画ではないのだ。

 あるいは恋愛映画とすらも言うのも不安になるほどにこの二人は、互いへの愛をひとりで真っ当しようとし続ける。過度な性描写はないのに呼吸を忘れるほど主演の二人が官能を獲得しているのは、セックスシーンを除けば、この二人は無駄のない会話と、無駄のない手紙と、ただ一瞬間相手の肩に触れた甘い時間、あるいは一瞬間相手の瞳から目を離せなくなった離れがたさ、相手が自分への肩に手を触れたその瞬間に目を伏せるしかなかった現実への抵抗、といったように、相手との甘い一瞬を永遠として反芻しようとする熾烈な片思いを維持し続けるからである。まさに片思いし合う同士しか恋愛には到達し得ないと言わんばかりに。だんだんと台詞が少なくなっていく二人の恋愛は、それでいて現実的でもある。

 ケイトにもルーニー・マーラにも互いに男がいる。しかし男は彼女たちの溜息に値しない。それはなぜかと言うに、相手がケイト・ブランシェットだからであり、ルーニー・マーラだからである。相手の所作や一言一言がただ完璧だからである。男のせいではない。むしろ、それを優雅に越えてしまった魅力を持つ女のせいなのである。どれだけ男がこの世に溢れかえってもそれは全く意味のない事柄なのだ。

 甘さも極めると、とっても上品なものだということを我々は知っていて、高級なチョコレートがもし映画となると本作のようになるだろう。

『LOVE 3D』(50点/100点満点中)

 簡潔に言う。セックスシーンが映画の中の三分の一以上二分の一以下を占めており、さらにはそのセックスシーンはすべて本物、つまり実際に挿入が行われており、射精シーンは3Dで演出されているのが本作である。人間、猛烈なストレスを抱えると18禁の映画以外まったく楽しめなくなるものだ。この映画はセックス、セックス、セックスの連続である。極めて退屈かと思いきやそのセックスはすべて違う時刻と違う場所、さらには別の第三者を介したり、薬物が絡んだりなどして、角度が一度違えば体位がほぼ無数に存在する原理に乗っ取って、監督は無数のセックスシーンを本編で描き続ける。登場人物がファックと言う回数を競い合っているような洋画があるが、この映画は登場人物が実際にファックする回数では映画史上最高回数ではないだろうか。

 そのセックスのほとんどは、ところで一人の男と一人の女との間とで行われるセックスである。
 主人公の男はすでにその女を失っている。その女はいまや行方不明である。その女の母から居場所を知らないかと電話を受け、そしてその女との出会いとセックスを回想するというのが本作の流れだ。ぶっちゃけて言えば男はセックスの起点と終点ぐらいしか過去の女について記憶できていない。ギャスパー・ノエ監督は嘘を吐かない。いや、たぶん嘘を吐けない。

 恋愛は葬られたとしても、失恋は葬ることができない。
 出会った頃はただの男と女であった彼らが、やがて人間とは思えないほどの連続した性行為で、人間としての原型を失っていくまでの過程が、時系列を逆にして語られる。愛だの恋だの言いながら、セックス以外は何も証明できない男、つまりこの世の九十九パーセントの男が元カノに対して抱いている美化の幻想を完璧に映像化したドキュメンタリーがこの映画である。セックスをちゃんと描いた『ブルーバレンタイン』と称すべきだろうか。

 だがなんとなくこの映画は女に見て欲しい。男をどうすれば破壊できるか、その教科書としてとても模範的なのである。

『マネーモンスター』(10点/100点満点中)

 私はジョージ・クルーニーに甘い。マッド・デイモンには厳しいのと同程度に、ジョージ・クルーニーには甘い。なぜか。ジョージ・クルーニーが甘い顔でスクリーンで微笑むだけで、もうそれだけで私も乙女のような気分になるからである。ジョージ・クルーニーはそれでいて現実世界の独裁国家の独裁主義者の動向をチェックするためだけに監視衛星を買収して打ち上げたり数度の離婚を経て国際弁護士と結婚しては政治活動を一切やめないなど、圧倒的に攻撃的な一面もあるので大好きである。枯れた男は事実死ぬ寸前まで仄暗く攻撃的なままなのであろう。そんなジョージ・クルーニーになりたいと誰もが思うが、誰もなれるとは思えない。そこにあのダンディズムがある。つまり私はジョージ・クルーニーさえ出ていればその映画は、もう満点を点けてしまいかねないタイプなのだが、『マネーモンスター』では観劇の途中でジョージ・クルーニーが出ているにも関わらず、寝てしまった。寝てしまったのだ。この私が。ジョージ・クルーニーの前で。これだけでもうお分かりかと思うが、『マネーモンスター』は駄作である。
 
 嫌われ者や性格が激しいタイプの人には分かってもらえると思うが、私は「謝れ」と言ってくる奴が大嫌いである。ましてや「謝れ」と言われて謝る奴も大嫌いである。だったら最初からするな、という話なのである。

 最高にご機嫌なジョージ・クルーニーが踊りながら酒を飲んで司会進行を務める、それでいてジョージ・クルーニーのおかげでちょっとは知的に見えなくもない財テク番組は、その財テク番組で六百万くらいの損失を負った青年の銃声によって乗っ取られてしまう。六百万くらいの損失だったのだが青年的にやっぱ一番悪りぃ奴はこいつだぜとジョージ・クルーニーに銃口を突きつけるのである。そりゃそうだ。財テク番組をやったらその番組が市場操作をできるに決まってる。あっち向いてほいの原理である。論理を丁寧に追えば誰も全然共感してくれないしそもそも緊迫感も全くない動機が犯人の本質であり、しかも某企業の株価暴落による八百億円相当のステークホルダーどもの総損失をジョージ・クルーニーたった一人に賠償させようとしたりする一休さんみたいな頓智を利かしたりするので手に負えない。さらに言うなら、そんな青年よりも、財テク番組を酒を飲みながらでないと司会進行できなくなってしまったジョージ・クルーニーの方がジョージ・クルーニーファンとしては遥かに心配なので、青年が泣きわめきながら銃を振り乱してもちっともなんとも思えない。それがあかん。この映画の監督は、そういう普遍的な常識層を一切考慮せず、経済的政治的映画を製作したが、観客の頭はもっと悪いということに気付いた方がいい。

 全体的な物語進行は、この怒った若者がちゃんと謝ってほしい人に謝ってもらうまでジョージ・クルーニーがいつも通り極めて紳士的にエスコートしてくれるという流れである。それには満足だった。性格の悪そうな彼もよかった。でもそれ以外の要素が全然ダメだった。

『悪人』(90点/100点満点中)

 新宿駅東南口の改札を抜けるとそこは地上二階だ。あの雑多な人通りを縫って、向こう側に見えるハッピーメールという看板広告は七年前からあの位置にある。もしかしたらそれ以上前からあるのかもしれない。あれが出会い系の広告だと新宿区民の私が知ったのは、先月のことだ。てっきり高給バイトの求人広告だと思っていた。しかし違った。
 どうしてそれに七年間も気づかなかったのか。気づけない理由はちゃんとあった。

 ブラウンヘアにカーリーボブ、スレンダーな体型の女の子が、控え目な顔で微笑んでいるあの出会い系の広告は、対外的には女性向けにヴィジュアルが設計されている。
 しかし、男性向けのハッピーメールの広告のヴィジュアルは、それとは対照的だ。無数の女の裸の写真が、無秩序に掲載され、ほとんどスパムのようなビジュアルなのだ。
 あの位置で微笑む女を、男は、いや、私は、ほとんど見過ごすような形でなんとも思わないが、女はあれが出会い系の広告だと認識できる。男はどうなのだろう。一瞥しただけで分かるのだろうか。私はそうは思わない。なぜならセックスができると知らない限り男が出会い系に手を出すはずがないからだ。たとえばそんなちょっとした崖のような性差に、出会い系というあの巨大なディスコミュニケーションが聳え立っているのではないかと思うに至った。


 妻夫木聡は家屋解体作業員であり、どうしようもない地方に住んでいる。
 彼は出会い系を使って満島ひかりに出会うような圧倒的強運の持ち主であるが、要介護の父親と怪しげなカルトに嵌る樹木希林という母親を持つその暮らしぶり。
 当然職場では異性と出会う機会もなく、およそコンビニの整髪料で陳腐に染められた金髪、きっと死ぬまで手に入れられないまともな家庭、そうして家を壊し続けるだけのその私生活。およそすべての感情表現は、黙るか、セックスするか、愛車のハンドルを殴りつけるかしかない、彼の人生は徹底的に暗い。
 満島ひかりは明るい。そして妻夫木には興味がない。妻夫木との待ち合わせで偶然居合わせた、大して好かれてもいない岡田将生君の車に乗って、妻夫木を置いていくような、見る目が全くない女である。その見る目のない感じが、だめで狡猾な感じが、これまた圧倒的で最高である。

 そうして出会い系で妻夫木が出会う深津絵里は、出会い系に絶対にいちゃいけない天使のような純粋さを持つ。
 ただ仕事以外の文脈で誰かと出会って話がしたい、という、音楽を聴きたいから渋谷のクラブに来ました、くらいに歪な、それでいて完璧に正しいこの女を前にして、主人公は犯すこと以外になにもできないのだ。しかし深津絵里は瞬時にこの男の、真夜中の郊外の高速道路のような空白を理解するのである。そうしてふたりで一切の現実から逃げようとする。出会い系で出会う、という一種世間体からは罪のように指弾されるコミュニケーションとその脱落から、必死にふたりきりになろうとする寂しさに、少しでも正しさを感じてしまったら、このふたりのうちのどちらかに感情移入しないわけにはいかないのである。
 誰かと出会って、ただ話したかった、という綱渡りのようなシンプルな望みが、九十九パーセントの男のばかみたいな性欲によって出会い系の本質を見誤らせていた時代、顔の見えない相手に賭けた祈りのような純粋と、そうして顔が見えた時から始まる地獄のような人間関係の悲哀が、九州地方のうら寂しい海辺で繰り広げられる。タイトルには悪人とあるが、悪人善人は誰か、といったしようもない二元論的テーマを完全に本作は越えてしまって、その訴えはほぼ宗教的な段階にまで至っていると思う。

『ランデヴー』(89点/100点満点中)

 パリには行ったことがない。だからパリは永久にパリのままだろう。フランス人がアメリカ人のようにスーパーマンを着想しなかったのは、街が余りに美し過ぎるからだと私は信じて疑わない。亡霊が似合うのも、あの古城とマンションと赤色の看板が映える本屋とが所狭しと隣り合う溜め息で作られたような都市ならではである。

 この映画は、八分しかない。

 そのパリの街をPOV視点で、高速カーがぶっ飛ばす。この車は、なにかに追われている訳でもなにかを追っている訳でもない。ただただ赤信号も無視し、おおよそ法定外の速度と思しき速度で、車体もタイヤを軋ませながら、夜明けの朧げな街を疾走するのである。
 この八分間、延々とそのぶっ飛ばすシーンが続く。いつこの車が横転するのか、スリップするのか、ダンプカーが飛び込んでくるのか、あるいは人か、もしくは真横から乗用車がぶつかってくるのか、おおよそそんな不安にとらわれ始めて猛烈な緊張を強いられる。しかしこの映画はそんな古臭い演出が市場に跋扈する、遥か昔に作られた映画だ。

 道交法をことごとく違反して、この法外な車が辿り着く最後の景色は、あらゆるカーチェイスものを瞬時に駄作に貶める最高の景色である。

『男と女』(88点/100点満点中)

 世界中の個性的なスイーツやケーキを食べ尽くした後、ひとつの極平凡なショートケーキにありついたとしたなら、その完璧な出来に打ちのめされるに違いない。甘いものに変な着色料は要らないのである。チョコもいらないのである。
 最小限の音数で、深く哀しく知的な音を出せるのが最高のギタリストだと喝破したのはとあるジャズブルースバンドの女性ボーカルだが、ショートケーキもそうであれば、映画もそうでなのであった。
 『男と女』という華美なタイトルが付けられた本作はショートケーキのような映画である。

 妻を失った男と、夫を失った女が、パリの郊外で出会う。女は映画産業に従事し、男はカーレーサーである。本作において死は、ショートケーキで言うイチゴのように、決して幸福な結末は用意されていないおとぎ話のように、ふたりを雨雲のごとく押しつぶしている。
 最愛の者を失った者同士である。いわばすいもあまいも知り尽くしている。
 フランス映画で昔の映画といえば、ただ甘ったるい会話が続くのかと思えば、そうではないのだ。愛してるか愛してないかなどの愚問をフランス人はデート中に提起しない。そんなことはベッドで確認するしかないのだ。二十代が相手の言葉の量で恋愛をするのであれば、三十代は言葉の質で、四十代は言葉を使わずに恋愛をするのだろうか。

 恋文の電報を出されて有頂天になる男、しかしそれでいて女はどこか心は上の空のまま、男と女が迎えるベッドシーンは、この描写のために映画があったのだ、と強く確信させる出来である。およそ無数のカットが交錯するベッドシーンがこの映画以後現れなかったのは、約半世紀この映画を越えられるシーン構成を誰も思いつかなかったからである。

 この映画はデジタルリマスター版として恵比寿ガーデンシネマで公開されていた。恵比寿といえばブルジョワの暇潰しのためにある、非常にいけすかない街である。しかしこの高飛車な街で日曜日の午後に見たこの映画は良かった。ブルジョワでいけすかない、しかしどこか完璧に正しい、まさに一生かかっても手に入れられない象徴のような、そんな本作は、完璧なショートケーキなのであった。

『ゲルマニウムの夜』(70点/100点満点中)

 前科七犯のような瞳をした邦画俳優といえば新井浩文ということで結論は出ている。
 本作は殺人犯として逃亡し修道院に流れ着いた新井浩文が、ソドムの市を追い越せと言わんばかりに、雪の降り積もる景色の中、不可罰になることを知りながら純粋な悪意で白犬を蹴り飛ばし修道女を犯し神父を言葉攻めし上司に吐瀉物を食べさせるなど、悪虐冒瀆の限りを尽くす映画である。

  清々しいほど最低な主人公なのだがなぜか最低に見えない。暴力はたいてい不合理、時として合理的だが、この主人公のそれはすべて不合理なのである。おおよそ自分の快楽のために行われていない。

 つまるところ神学校というものに一度でも触れて気が触れそうになったことがあるならやってみたくなることを、すべてこの主人公がまっすぐに代行してくれる。
 暴力が反宗教的理由で観念され実行されるのは邦画でも相当珍しいのではないか。さらには暴力の主体がとても知的で自覚的でもあるというのも非常に珍しい。

 雪景色の中、立っているだけで次になにをするのかまったく予想がつかない新井浩文の存在感は、それまで彼が演じてきた悪役の中でも群を抜く。
 なにをやろうとしてもその直前まで表情を一切変えないためか、彼がなにかを目の前にして蹴るのか噛みちぎるのか犯すのか殴るのか、先が見えないのである。特に告解室での神父との問答は白眉だ。この主人公は、被虐や加虐をすればするほど、基督と悪魔の間を揺れ動き、だんだんと人間に接近してしまう。

 重要な登場人物が匂いに固執する演出は原作譲りなのだろうか。
 極寒の地では体温よりも先に嗅覚が失われるとして、養鶏場や吐瀉物や足の匂いといった最も汚れたものに罰のように突進していく主人公は、まず共感されることはない。であるがゆえに、神だけが彼に共感でき、彼だけが神に共感できる、鋭角な不等辺三角形のように歪な構図が見えてくる。倒錯した映画が見たいというとき、この映画を選ぶのが正しい。

『GANTZ:O』(50点/100点満点中)

 夜討とは赤穂浪士から続く古き良き最高の主題と言える。
 各自武器を持って夜に集まり悪い奴らを退治する。さらにはそこにエログロをぶち込んでついでに新宿も道頓堀もギリシャもアンジェリーナジョリーも出してしまえという原作の大盤振る舞いは、漫画という架空世界の贅沢の極致を行くもので、その後の形而上学的超展開は数多のファンを置き去りにしたとはいえ、それでもあの暴力世界は、少女漫画が少女をキュンとさせたように現実に嫌気のさしたちょっと冷めた可憐な少年のハートをやはりキュンとさせたのである。

 愉しいニヒリズムがそこにあったのだ。
 勃起しながら泣く、そんなニヒリズムである。そこに愛だの恋だの、あるようでない、戦時のロマン、こびりついた血のように消えない一滴のセンチメンタリズムがガンツの底流にある。死や肉体破壊が、あたかも侘び寂びのごとく語られる。愛されて当然の原作である。


 そんなファンの愛は、しかしアニメや実写化などで散々裏切られた。しかし日本人は裏切れることに慣れている。言わんやガンツファンは、である。

 そうして出てきた本作は、これまで山積していた問題点を完璧に潰した。

 しかしこれまで問題にならなかった問題にガツンと躓いた。

 良いところから言う。玄野君の死後世界がこの映画の舞台である。それに絞った点がソリッドでよい。加藤君は絶世のイケメンである。そして武器の造形が素晴らしい。登場人物のおっぱいは言うに及ばず、ギョーンギョーンするあの武器のカチャカチャ動く感じがとっても可愛らしくて素敵である。実写化不可能の所以がここにあったのかと思わせる。あの猥褻な道頓堀の夜の陰鬱なグラフィックも素晴らしい。ぶっ壊れてもいい街が景気良くぶっ壊れる。そこで軽妙に動く登場人物も、ヨーダのように宙をまうぬらりりょんも限りなくリアル。肉地獄のようなシーンもそのキモさは圧巻である。なんかめっちゃ金が掛かってそうなのでこれを作ったアニメ会社は元がとれてるのか不安になるくらいであった。

 が、これらを台無しにする、aikoのような女がでてきたのが最悪の采配であった。

 そんなんしたら死んでまうで、あんな男なんてなかなかおらへん、ほんでな、うちはあんたのことが大好きやねん、ほんまに狙撃でいくん、狙撃とかで大丈夫なん、などと関西弁で甘ったるいセリフ、しかもこのご時世、映画では言ってはいけないレベルのようなアカンセリフを連発するこのaikoはもちろん加藤君のことが好きだ。ついでに言うと二十代前半にして子持ちの苦労人でもある。こいつが加藤君の周りを天使かなにかのようにフラつく。きっとこいつらは恋をするんだろうなと思うし、ガンツファンなら当然予想し得る最後を迎えるんだろうという感じになる。

 この、恋が、いらない。

 いや、ないと、映画として成立しないのは分かる。

 しかし、この女の恋や発言は、血や肉片やおっぱいご飛び交うこの映画では、今更あまりに軽すぎるのだ。

 ガンツというなんの理由もなく妖怪がバンバン出てくる原作の映画では、恋だの愛だの言わないと、筋が一切通らないのは確かである。しかし恋だの愛だのをやられても、こちらのハートは動かない。なんだか小恥ずかしい資本主義の論理、日本の限界、プロデューサーの思惑を垣間見るようで、脚本の落ち度はかなりこちらを相当冷めさせる。どうせなら強い女を一人でも出し、弱い女は徹底的に弱く描くなどの強弱が必要だった。
 しかしガンツの世界においては残念ながら女は非力な存在なのである。いや、そうでなければならない。なぜか。少年の漫画だからだ。

 映画館に行くのは少年少女と大人の狭間にいる、アダルトチルドレンたちである。aikoには騙されへん。そのことだけよう覚えといてほしい。ちなみに関西弁も俺は嫌いや。大阪編の感じは好きやけどな。ほなな。

『少女』(60点/100点満点中)

 十七歳の時は一番正確に世界を呪えた気がする。中学生でもなく大学生でもなく、高校生。学年で言えば二年生。前にも後にも行けぬ最悪の時期である。
 そうしてお行儀の良いクラスメイトに囲まれて窓辺から眺める景色にはなんの希望も見出せない。
 なんでも知ってそうな現代国語の先生に対して早く死なねえかなこいつ、と思ったり、部屋に帰ってバキバキに意味不明な小説を書いたり、左唇を歪ませながらツァラトストラが云々と言い出したってなんにもおかしくないような状況なのである。


 本作は、「子供なんてみんな、試験管で作ればいい。」という最高の書き出しから始まる小説が原作である。

 煙草を三万本くらい吸ってないとできないようなやばめの目付きでナチスのようなシックな制服を着て、先述のとりあえずやばいことを全部平然とおっぱじめる本田翼、そして先日貞子と伽倻子の合体化に貢献した山本美月のダブル主演である。

 いじめ、殺人、認知症、恐喝、売春、病気、などなど、重いテーマが、びっくりするほど綺麗な映像でオシャレに描かれる。
 舞台となる基督系女子校の朝の挨拶は「ごきげんよう」であり、そんな最下層テーマが超ハイソなクラスで描かれるのでどこかディズニーランドから明るさとポップさを抜いて地獄っぽくしたファンタジックな心象風景が続く。
 が、テーマなんてはっきり言ってどうでもいい。

 本田翼が一番良い。
 ドラマやCMでクローズされる彼女のビタミン感は全くない。ちっとも可愛くない、そして狡猾そうで倦んだ表情はそういえば見たいと思っていたけど見ることはないんだろうなと思っていた。本田翼が大嫌いな人は、本田翼が大嫌いになるような青春を送ってきた人であるが、そんな人は本作で本田翼を好きになるに違いない。いつでも人を刺し殺す準備ができたケダモノのような顔で彼女は劇中、冷徹に策謀を張り巡らす。
 お食事中に焼き魚の目にお箸を突き刺しまくるシーンなどは、良い。コンドームを手にとってよくわからないジジイとセックスすべきかしまいか、のシーンなどは、ああこれが本田翼の限界かとも思いながらそれでもよくやったと思えるのである。
 山本美月はいじめられっ子なのだが、桐島の彼女なのになぜ今回いじめられてるんだという感じがしてなんともいえない。

 十七歳の気色悪さの美しい映像化というジャンルで本作は突出していて、というか今までにない新しさで、そうしてそれ以外の要素、あるいは愛こそすべて的な物語の着地がしかし私には水と油のように感じた。
 お友達のことが好きか嫌いかが、この映画を好きになるか嫌いになるかの別れ目となっている。

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