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『シン・シティ 復讐の女神』(30点/100点満点中)

 我々はエヴァ・グリーンという、すぐ脱ぐ女について考察しないわけにはいかない。

 エヴァ・グリーンは『カジノ・ロワイヤル』のボンド・ガールである。
 眼つきが狂暴で悪役の風情。贅沢な黒髪。どこか幸が薄そうで暗い声。どっからどう見ても美人で、脱がなくてもやっていけるのに、映画ではバンバン脱ぐ。『300』の続編でも脱ぎまくって『300』のあのいつ死んでもいいホモセクシャルの論理とストイシズムをサークルクラッシャーよろしく台無しにした功績には度肝を抜かれた。バンバン脱ぐ。つまりそれはある意味男への絶望である。男社会、映画業界への絶望でもある。

 中年がバカみたいにかっこいい『シン・シティ』、その続編の本作でも彼女は脱いだ。
 これしかやることがないと言わんばかりにあのモノトーンの世界観であのバストをスクリーン上に晒した。全く脱ぐ必要がないのに、である。ヌード界のジェイソン・ステイサムである。エヴァ・グリーンと言えば脱ぐ、というイメージが完全に脳裏にこびりついているため、あたかもいつかは死んでしまう母が帰省する度にだんだんと老いていくのをまざまざと確認してしまうかのように、彼女の裸体は切なく私の目に沁みるのであった。

 『シン・シティ』続編は、そうしてエヴァグリーンが理由不明に脱ぎまくることによって、他の俳優の頑張り具合が全く頭に入ってこない、奇跡のような展開で、駄作になっている。

 脱ぎまくると言えば、私服で露出度の高い人間が私は苦手である。彼女たちの魂胆は分かる。
 あれは商品の陳列のようなものなのだ。世界への礼儀のような、あるいは露出されることで自己確認がなされる何かである。つまり露出されていることを男は否応なく確認する。男に確認されることによって男はつまらんと当人に確認される。こうして男女のどうしようもなさが世界に固定される。ナンセンスである。このいたちごっこを断ち切るにはどうすればいいかと私は考えに考えた結果、街行く女には一瞥もくれないという解決法を20歳の頃から実践した。そうすることによって初めての恋人にはゲイだと思われた。

 つまり何が言いたいか。
 一瞥もくれてやらないことがシン・シティの美学である、ということである。
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『シン・シティ』(97点/100点満点中)

 全く知らない街で体感治安最悪な景色を見ることは稀にある。そんな時は決まって「ゴッサム・シティみたいだなあ」と独り言してしまいそうになるし、実際そんな街に出くわした状況が満更でもないと私の中の少年がワクワクするのもまた事実である。キャッチに「お兄ちゃん、おっぱいは?」なんて聞かれた時は本当にびっくりした。おっぱいが耳の中でゲシュタルト崩壊するかと思ったくらいである。「あ、大丈夫です」なんて言うけど全然大丈夫じゃない。おっぱいについてはまったく平素から関心を寄せていないにも関わらず大丈夫じゃなくなったのである。全身黒色の服を着ていれば歌舞伎町の悪いキャッチのお兄さんにはまったく声を掛けられないと気づいたのは新宿に住み始めて一ヶ月経った時のことである。

 が、そんなやべえ街は実際には実在しない。

 そもそも架空のゴッサム・シティですら、すぐに善悪二項対立がどうのこうのと言い出す教育家である。アイアンマンもである。
 そんなのは要らんじゃねえか、男は女のために死ねばよし、と十年前に言い切ったのが俺たちの『シン・シティ』である。

 男は女のために死ね、というたった一行の美学が、一時間半程度の映像になっている。
 
 その思想は雑誌で言うなら『プレイボーイ』か『レオン』そのもの。
 みーんな女のために死ぬ。それでいて本作の女は弱くない。めっちゃ強いのである。

 そしてめっちゃ強い男がバンバン撃たれてバンバン殴られて、バキューンと死ぬ。あっ、オチ言っちゃったけど、オチなんざこの映画、どうでもいいくらい全編が良い。ハナから善悪がどうのこうのは言い出す気はまったくないその潔さ。その潔さを示すのはストーリーラインだけではない。

 映像美は僕がこれまで見た映画の中で飛び抜けて良い。全編白黒だ。
 血と女の唇にだけ赤が着色されている、超絞られた映像配色である。

 本作は好き嫌いを二分する映像美だとよく言われる映画だが、そもそもグロテスクは白と黒と赤さえあれば表現できるのであり、そして白と黒と赤だけでも映えるか映えないかという視点だけでキャスティングがなされた時、死ぬほど美しい女かめっちゃくちゃやさぐれた中年の男しか選ばれなかったという点、贅を極めると言っていい。そうだ。中年の男。もうなんにもすることがないから煙草と酒ばかりやって汚らしいオーバーコートを引きずりながら歩くような男が女のために死ぬ。矢沢永吉が実在の人物である、という事実より幸福な架空である。

 この映画の第二作では俺たちのエヴァグリーンが脱いで脱いで脱ぎまくるが、脱がんでええのに脱ぎまくった点は別途論じる必要があるものの、そんな中年の男たちが、ほら、俺、今から死ぬんだぜ、でも後悔はねえや、みたいなすんげえやべえナルシスティックでカッコいい台詞を連発して華々しく散っていく本作は俺が女なら上映中に100回くらいイッちゃったんじゃないかと思うほど上半身にも下半身にもギュンギュン来る映画なのである。

 なんにも言ってないに等しいレビューだが、なんかあんまり親しくなりたいと思えない人にめちゃくちゃ好きな映画なんだと言いながら本作を勧めるのがちょうどいいなとこの年齢になって気づいた。いや、ほんとに大好きなんだけどね。

『ミュージアム』(64点/100点満点中)

 かつてゲイリー・オールドマンが言ってたと思うのだが、人間の喜怒哀楽の演技の中で最も表現が難しいのは、怒りの演技らしい。理由に彼が附言して曰く「怒るとはつまりいきなり爆発しなければならないからだ。いきなり爆発するにはちょっとした寿命を毎回犠牲にする必要があるから」などと語っていたのを何かの映像で見た事がある。確かに心当たりはある。喜怒哀楽の中で、怒るという動作は心的コストが一番高い。ハイリスクノーリターンであるからこそ、圧倒的な侵害行為であるからこそ、自他ともに迫真性はもちろんちゃんと正当性・急襲性を付加しなければならないということである。一瞬で怒らないといけない。怒ると決めないで怒る人も、怒ると決めて怒る人も、傍目からは一瞬で怒るのでやっぱり怖いのだ。

 本作は、小栗旬が怒って怒って怒りまくる映画である。
 罪状に合わせて私人が勝手な動機で私人を殺す映画『セヴン』が本作の創作根拠となりつつ、妻夫木聡がそんな和製の猟奇殺人犯を楽しそうに演じる。妻夫木聡は妻夫木聡に見えないくらい顔がグチャグチャの設定なのだが、幾ら顔をグチャグチャにしてもヘラヘラしてるとやっぱりシルエットが妻夫木としか言いようがなく、そのヘラヘラ感が今回墓石のように重苦しい小栗旬と良い対比になっている。
 そんな彼がどんな風に人を殺すかはもう予告編でガンガンやってしまっている。そもそも予告編の時点で悪役が妻夫木聡だと言う必要があったのかどうかすらも疑問だが、予告編でやってるということは、割とどうでもいいシークエンスなのだ。ばんばん殺すシークエンスは主に前半の前半の展開であり、本作の新規性は後半にある。

 後半の小栗旬が妻夫木聡に監禁され精神的に虐め抜かれるシーンは、『オールド・ボーイ』や『ホステル』やら『カジノ・ロワイヤル』を超えかねない拷問シーンだった。
 仕事優先で息子の誕生日も忘れ、妻子を実質的に捨てて生きてきたような男が、今や壁の向こう側の猟奇犯に妻子を誘拐され、その妻子が生きているかどうかもわからず、犯人お手製のなんだか牛肉で作られたとは思えない差し入れのハンバーガーにガツガツ食らいつくシーンを見れば、もうその日は絶対にハンバーガーを食べられなくなるし、そもそもマクドナルドとかに足を運ぶ体力すら奪われるくらいに疲れ切るほどの暗澹たるシーンである。
 小栗旬はもうどんどん怒る。顔を真っ赤にしたり真っ青にしたり真っ白にしたり真っ黒にして、やがて人間ではなくなっていく表情の変化は、人間国宝の伝統家芸のように軽妙かつ荘厳で、ところで僕は藤原竜也と小栗旬の声はそっくりだと思うのだけど、やっぱり藤原竜也が悲しさ(というか悲鳴)の表現が多彩なら、小栗旬は怒りの百貨店みたいですてきだなあと思う。

 猟奇殺人をテーマにした映画の評価、悪役の魅力とは右記のような単純式で評価しても良いと思う。即ち「殺し方の斬新さ+動機or出自の意味不明さ+特にそういうことをなんにもしてない時の高等遊民感+ルックスのキモさor洗練されてる感+反省のしてなさ+ちゃんと逮捕されず最後は逃亡できたかどうか」である。そういう指標で判断した時、本作の妻夫木聡君は、その最後以外は完璧ではないかと思った。

『小さな悪の華』(1点/100点満点中)

 劇場公開は約半世紀前のフランス映画である。
 ボードレールの『悪の華』も今となっては眼つきのヤバいハゲがなんかヤバめなことをヤバめなフロウで言っている読後感しか齎さない。そしてボードレールのそれと関係のあるようであんまり関係ない本作は、当時内容の非道徳性から政府に上映禁止を命じられたと言う。国内公開時のコピーは「地獄でも、天国でもいい、未知の世界が見たいの!悪の楽しさにしびれ 罪を生きがいにし 15才の少女ふたりは 身体に火をつけた」という主観と客観が入り混じって死ぬほどイライラするしついでにオチまで丁寧に教えてくれる機能性の高過ぎるキャッチコピーだったらしいので、今更になって気になって見てみた訳である。というのもツタヤがオススメしていたからである。が、結論から言うと、目が腐るのではないかと思うほどに虚しい映画であった。十三歳やら十五歳の女はやっぱりクソつまんねえなという感覚が私のDNAに深く刻み込まれるような映画であった。
 基督系の寄宿学校で、官能小説を屋根裏部屋から発見した同級生の少女二人が、真夜中布団に閉じこもって懐中電灯を照らしながら読誦し、キャッキャしている。
 そのまんまのノリでレズビアン・セックスでも始まるのかな、私が彼女だったら始めちゃうけどな、と思いながら見たが、一向にしてレズビアン・セックスは始まらない。ありえない。男子校であればそんなもの余裕で始まるのに、この寄宿学校では始まらない。ナンセンス。その時点でもちろん、0点である。
 この少女二人は、夕食前に煙草を吸ったり、夕食後は服を脱いで自分の成長過程の身体に見惚れたり、ついでに鳥とか毒殺したり男の前で脱いで男に強姦されそうになって泣きながら逃げたり、ついでに最後は詩でも読みながら焼身自殺を図ったりと、それなりに頑張ってはいる。だが、最低と言うには努力が滲み、最高と言うには臆病さが垣間見え、中途半端と言うにはその時代環境を鑑みればある程度の斬新さは否定できない、という、なにもかもが中途半端な顛末で、その中途半端性に置いては完璧なのだが、タイトルを見れば『小さな悪の華』という用意周到なエクスキューズが行われている点では、一点くらいの知性を感じる。だから一点である。

 誰に向けられた作品なのかと言えば、これは当時の不自由な少女に向けられた作品であろう。
 管理教育からするりと自由にはばたき、淫靡なことをすることに使命感を持った、行動主義で悪魔を崇拝している少女たちは、たぶん時代的に見て、善い存在である。が、なんていうのだろう、その凋落の度合いが、ちっとも粋じゃない。アン・ハサウェイが、チャラチャラして適当にセックスしてそのノリでチャラチャラとヤバい街に行って、優しそうなギャングにいきなりレイプされそうになったのでワッと泣きながら逃げる、でもチャラいまんま、という極めて難解な映画を思い出した。あの系譜の元をたどればこの映画に辿り着くのかもしれない。
 もっとやばい少女なら、いくらでもいた筈だ。もっとやばい話なら、いくらでもできた筈である。少女映画の傑作は、あるようでまだないんじゃないかと思う。

『グランド・ブダペスト・ホテル』(80点/100点満点中)

 銀色のアクセサリーよりも、金色のアクセサリーに昔から魅かれた。思えば小学低学年の時、母の寝室にある硝子の華奢な宝石箱を家に誰もいない時間を狙って、ただひとり眺めるのが好きだった。その理由はうまく説明できない。宝石を乙女として眺めていたというより、ただ満たされきってしまった老人の様な心持ちで眺めていたのである。その宝石たちを身につけた母を結局見ることはなかった。今になって知ったが、それらはこの時代身につけるには悲しいほどに派手過ぎるデザインだったのである。私は彼女が死んだら、それを譲ってもらう約束をしなければならないだろう。私の中の乙女と老人が、そう言っている。
 金色とは、つまりもう役に立つことを諦めた色だ。もう機能らしい機能をする気はありませんという色である。身につけられることのないアンティークとは完成された小さな金色の廃墟だろう。贅を尽くすにはただ優雅である以外に義務などない、とダンディズムの王ブランメルは後世に自哲学を寸言で遺した。

 いつか我々も記憶の廃墟になる。あるいはもうそうなっているのかもしれない。百貨店にある雑貨屋とは、ある意味乙女的な諦観を売るのである。映画館が映画を売るように。

 本作はそんな廃墟の中にあった廃墟、さらにはその中の廃墟に、かつて脈打っていた豪華絢爛な黄金時代と文明、戦争と諧謔と知性と懐古主義とをミルフィーユのように重層的に描いた映画である。

 小説家の銅像というどこにでもあるひとつの廃墟から、その小説家の小説という廃墟、そしてその小説の作者が訪れたホテルで、彼が出会った孤独な老人という廃墟。その老人がドアボーイとして勤めたそのホテルで支配人として君臨していた、超有能にして軽薄で饒舌な金髪のホテルコンシェルジュの人生譚を本作は描く。

 ストーリー自体はどうしようもない男が東奔西走するドタバタコメディだ。
 笑えるシークエンスの笑いも、たった一秒しか笑えないイギリス風のジョークである。パッと見せてパッと別シーンに行く粋で可愛らしい見せ方。
 劇中、九十九パーセントのシーン構図は一点透視図法で撮影され、そのカメラワークは上下左右に九十度ピッタリにしか動かない、至って非合理な徹底振り。
 かつては非合理こそ贅沢なのであった。
 この世で一番インスタグラムの写真を撮るのが上手い人が完璧に映画を撮ったらこうなる、としか言いようのない贅沢感がイライラするくらい、作風は洒脱を極める。

 そうしてイライラするほどオシャレな主人公が、殺人犯という冤罪を被せられながらもその名誉を回復するために軽薄軽妙なやり口で逃走しながらも、部下のドアボーイとベルリンの古城や雪山を駆け抜ける様は愛おしい。

 主人公の最期は悲哀に満ち溢れている。
 唯一諧謔抜きで描かれる、軍との対峙シーンは劇中二度現れる。

 戦争という全てを廃墟にする時代趨勢で、それでも廃墟の中に残された光のなんたるかを語り、パタンとこのお菓子のような絵本は小粋なエンドロールを迎える。

 二十五歳を越えると友達か親戚の一人は死んだり、あるいは結婚して子供を産んだりする。これから買うものや選ぶものは、たとえば一冊のその本は、世代を越えて残す価値があるか、つまりは本棚に置いていいものか、次の世代に譲っても恥ずかしくないものかどうかをふと考える。あるいは本でなくても、それが有形のものか無形なものなのかは問わない。いま残っているものは、明らかに誰かが残そうと思って望んだものであり、それについて少し時間を取って考えたくなる映画だった。

『ノーカントリー』(75点/100点満点中)

 レディー・ガガもマドンナもエアロスミスもビヨンセもケイティ・ペリーもアリアナ・グランデも、全員まとめてヒラリーを応援したのにドナルド・トランプには勝てなかった。トランプが勝ったのはアメリカが負けていると言ったからだとする分析結果がある。ヒラリーが負けたのは、アメリカはこれからも勝ち続けると言ったからであり、そしてその味方に、既に勝ちまくってるポップスターを揃えて舞台に上がったからに他ならない、と言うのである。どうやったら勝てたのか。終わってみれば、どうやっても勝てなかったのではないかと思える程の機微でヒラリーは負けたのかもしれない。そしてこれほど皮肉なことはない。
 戦後日本の時代は終わったという言葉を見たが、戦後日本の本当の展開が今日から始まったと言ってもいいんじゃないか。神戸の地震の翌日はこれから起こるであろうすべての最悪なことに、私は避難所の体育館の隅で小さい胸を弾ませたものであるが、アメリカの人もそう思っているのだと私は思う。

 そう思えば近年出てきた殺し屋の映画は傑作揃いだった。
 殺し屋映画というものは不思議なもので、アメコミ映画が戦争史観や直近の戦争の総括的意識であるならば、殺し屋映画とは直近のアメリカの潜在的経済観の反映なのである。
 金の話以外は一切出てこない『ジャッキー・ゴーガン』は、映画としては地味だしブラピがカッコいいだけなのだが、架空の舞台の中の、その社会の外部中の外部である殺し屋ですら取引先との請求金額の確定や請求それ自体にまごつく。錆びれた硬貨のようなアメリカ中部の貧困実態をスクリーン上に初めて引きずり出した佳作であった。同じくブラピがカッコいいだけの『悪の法則』は、メキシコ・マフィアが黙々と迫ってきては享楽的に登場人物を一人一人殺していく。殺す方法は痛めつけるというよりもただ面白おかしく、ナンセンスに、無意味に殺す方法をどこまでも見せてくる。保守派の恐れたメキシコの無秩序、しかしそのメキシコからの移民も犯罪も自国は受け入れざるを得ない経済的絶望、諦観が、比較的恵まれたどことなくハッピーなだけの富裕層に宿命論のごとく及び行く様を映画的に翻訳した、かなりの悪意ある映画であった。

 振り返るに、『ノーカントリー』はそんな殺し屋系列の映画でも異様だったと思う。
 当時、文学として消費された向きがある本作は、殺し屋がヒョイと出てきてヒョイと殺してヒョイと消えていくその異様さがとってもロックでポップでホラーであったのだ。死体の山を掻き分けても、刑事は全く犯人の行方を掴めないまま終わるソリッドな不条理劇だった。「犯罪が意味不明になっている」と嘆く刑事がほんとうに嘆いていたのは、その犯罪の向こうにある見えざる神の手、経済論理、国内外規模の資本主義の速度、それを目の当たりにして錆びついた、あるいは錆びることでなんとか生きながらえてきた地方の高齢者層の自分という、限界であったのである。
 昔はついていけた、今はもう無理、という了見は、その時点における自殺のようなものだ。

 オバマが大統領になった時点で、「アメリカを再び強い国にする」というワードをトランプは商標登録していたらしい。
 アメリカの絶望はやがて怒りに替わり、それは引いては経済効果へと換金できると恐らくはサブプライムローンの崩壊時から彼はその犯罪的な勘で予見していたのである。
 であればこれから作られる殺し屋映画は全くもってその作風を変更せざる得ないことになる。トランプは暗殺されるかもしれないという声が上がっているらしいが、直近の韓国の大統領は何代にもわたって、退任後何かしらの理由で暗殺され続けている。当たり前だが私人が一人暗殺されてもそこに報道価値はおそらくない。映画は、それでも現実を越えなければならない。

『ロブスター』(50点/100点満点中)

 恋愛禁止というルールを持つサークルだと知って、ああこれこそが私の求めていた集団なんだと喜び勇んで入会したのに、実はその部長がサークルの一年生と付き合っている上に会員五十名の中にカップルが10組以上いるという事実に入会三週間で気付いて絶句して退会したことがある。
 童貞ほど精神性に於いてストイシズムのある人種はいない。ありとあらゆることに恋愛が障害になると考えていた私は当時十八歳の可憐な童貞、いや、乙女であった。それから少なからずの年月を経て、いまやありとあらゆるものが恋愛の障害になる、そんな乙女の最果てのような考えを持つに至ったわけである。愛って怖いね。いやん。

 結婚できない者は、男女ともに強制収容所に入れられ、そこでパートナーを数週間以内に見つけられなければ動物にさせられるという設定が本作である。
 結婚できない場合には、夫妻のどちらかが先立ち片方が未亡人になった場合も含む。
 当然その施設にも逃亡者が出てくる。しかし施設管理者の命令により収容者はその逃亡者を殺すことで、施設滞在期間を数日伸ばすことができる。つまり人間としての終期を伸ばせるという仕組みである。
 そんな超ディストピア設定が非常に牧歌的な田舎の近代的な城の中で行われる。自殺する者。泣き叫ぶ者。ひたすら逃亡者の抹殺にだけ打ち込む者。パートナーを見つけて、支給された娘と三人暮らしを始めるカップル。ちなみに街中では警察がうろつき、一人で歩いてる人間には「おまえはまさか独身じゃねえだろうな」と職質を掛ける徹底振り。施設内自慰行為禁止。しかしセクシーなメイドが毎朝勃起だけさせに部屋に来て勃起させたまま部屋を後にする。

 まさに痒いところまで手の届いた国家設定の異様さは、しかしその国家思想と相反する草の根組織の登場によって重層的になる。その集団はレア・セドゥがトップを務めているのだが、彼女の敷いた集団への規律もやはりまた異常なのだ。人目のつくところでキス禁止、音楽聴くの禁止、二人で踊ったりするの禁止、と、日本赤軍派クラスのシャイな乙女集団となっている。ディストピア世界はどこに行ってもディストピアだが、さてこの主人公が行き着く先はどうなるか、という話である。

 ここまで書くともうお判りかもしれないが、この作品、中だるみがひどい。
 前半の設定がめちゃくちゃ面白いから、後半登場する対立組織の原理主義的なストイシズムはそんなの無理っしょ感がある。なぜなら交配を前提としない組織という存在を、自種にも他種にも、細胞原理で通常人間は理解できないからである。

 最後の方はほとんどメルカリを片手に鑑賞してしまったのでどういう感じだったかもう今となっては闇の中だが、前半の素晴らしさは間違いがない。婚活やら恋活やら合コンというシステムに対して悪意を剥き出しにして映画で抗議するその呪いの量は異常値に達している。しかしそこにアンチを張ってもやはりそれに回収されざるを得ない無間地獄を本作に見た。愛って怖いね。いやん。

『ムービー43』(80点/100点満点中)

 博多駅前に巨大な穴が開いているのを見た時、たとえば友人がそれを指差して笑うタイプの人なのか笑わないしそもそも笑うということすら思いつきもしない人なのかというのは、常識的に考えて、とても重要な相性基準かもしれないと思うのである。時としてそれは食事の相性より関係の深度を左右する。死人はいないからああいった人命性の高い話に不謹慎もなにもないはずだ。死人がいたら笑えない話ではあるが、といった前置きでもここで言っておいた方がよさそうだから言っただけなのだが、どう考えてもあの穴は笑えるのである。深淵を覗き見る時、深淵もこちらを見ている、とニーチェは言ったが、あの実写化がまさか福岡で行われるとは夢にも思わなかった、あーおもしれえ、という感じだ。もっとバカにしたいが、これ以上はやめておこう。
 笑いとは真面目の脱臼だという話がある。不真面目なそれは笑えないのだ。博多の駅前は真面目である。だから博多のあれは笑える話だ。豊洲の地下道も笑える話である。人命性は高いが、よくわからんが笑える。私が昨日通販詐欺で一万円パナマか中国系の悪い人に騙し取られてテンションがガタ落ちし、警察に通報しようとした話も実際笑える話である。なぜなら私は私なりに大真面目にその通販サイトで腕時計を買ったからである。
 もっと高度な空虚空洞で連想するに、トランプとヒラリーについても、極少数のアメリカ人にとっては笑える話ではないか。
 投票に行く気はさらさらなく、特に金はないが満足でも不満足でもなく、なんでもかんでもバカにしくさる気が満々で、延々と下ネタを言いまくるナチュラルボーンニヒリストの極一部のアメリカ人にとってはめちゃくちゃ笑える話だったりするのではないか。トム・ハンクスが眉間にシワを寄せながら出てくるヒューマン映画なんて金をもらっても絶対に見ない人間は地球上に一定数いる。それと同じである。

 ヒュー・ジャックマンの喉仏になぜか睾丸が付いていてそうとは知らず彼と食事を始めたケイト・ウィンスレットがそのレストランで最悪な目に遭うという、攻撃的なほど無意味な短編から唐突に始まり、ナオミ・ワッツが自分の息子を物理的にも性的にも虐待し、アンナ・ファリスがスカトロ趣味に走る短編、クロエ・グレース・モレッツがいきなりデート中に初潮を迎えて下半身を血まみれにする短編など、この映画は約10点ほどの性差別、人種差別、家庭内暴力、動物差別などに満ち溢れた極悪の短編と短編をくっつけて構成されている。ゴールデンラズベリー賞では「最低作品賞」「最低監督賞」「最低脚本賞」の三冠を獲得したらしい。狂った映画脚本家がプロデューサーに売り込んだ映画構想たちを実写化したらこんな感じになりました、というサイドストーリーがこの10本の短篇を繋ぐ。映画が好きで好きでまともな映画が嫌いで嫌いでしょうがない業界の人たちが結集し、自身の名誉を投げ捨てて、透徹した美学とでも言うべき集中力で下品に下品なものを塗り重ねて作った映画だと思う。

 老人ホームで流しても幼稚園で流しても笑いが起こりそうな、何だか古き良き、そして安心して見られるめちゃくちゃ下品な映画である。私もそろそろ子供ではないからあんまり毎日笑わないようにしているけど、この映画はめちゃくちゃ笑わされた。アメリカの笑いは、ロックだなあと思うのであった。
 そんな映画を作れる諧謔精神と反骨精神の溢れた国民性がいま、強い国にしようと言われ、乗りに乗っているように見える。これを書いてる時点ではどっちが勝つのか分からない。こんなバカバカしいものを十年掛けて作るような愛と慈愛と反知性に溢れた国なので、トランプかヒラリーか真面目に議論してもやっぱりなんだかバカっぽいのは本当に凄い。たぶんこの映画が好きなアメリカ人はトランプの波に実は乗れていないのかもしれない。トランプとはアメリカのペニスである。ヒラリーのあの意味不明な微笑にも乗れていないのかもしれない。それはそれでなんという政治的孤独、国民的孤独だろうと思うのだ。

『ラスト・ナイツ』(39点/100点満点中)

 宇多田ヒカルであるということを宇多田ヒカルではない人がその一万分の一でも背負えば、その得体の知れなさに圧死してしまうに違いない、と私は勝手に思っている。外圧からの重圧というより、厳密には内圧で死んでしまうような気がするのだ。自分の作る曲が億人に聴かれているだなんて責任を人間は普通負うことができない。だからおそらくなにかを作る人はたった一人のために作った方が、激しく作れて、正しく作れるのかもしれない。
 そうして宇多田ヒカルの元夫である紀里谷監督は宇多田ヒカルの元夫であるということをある意味一生背負い続けてる、のだとしたら、その外圧、その障害、その逃れがたさたるや想像を絶するものがある。紀里谷監督は紀里谷監督という名前だが、どんなメディアに出ても、あるいはコンビニに行っても、映画監督である以上に宇多田ヒカルの元夫であるという認知が付きまとう。
 私は『キャシャーン』も『GOEMON』もめちゃくちゃ好きだ。監督がオラオラしてるからである。俳優がなにをしてもそれは監督の化身に見える。監督のセンチメンタルも好きだ。俺ってすごいだろ、どや、オラ、オラオラ、と全編で言っているからである。あんな映画を作れるやつはヒットラー級のナルシストで、そして人に嫌われる奴でもある。私が紀里谷監督の母だったら、紀里谷監督の髪がぜんぶ抜け落ちるまで紀里谷監督の頭を撫でてあげていたと思う。この二作は邦画でもその酷評のされ方はかなり上位に入る二作だが好きだ。愛してる。剣を持った男があり得ない飛び方をしてありえない情熱でありえない復讐劇を繰り広げる。十三歳くらいの少年の全能感と絶望感がもし天才的な映像センスも持ち合わせてたら、という神様が暇潰しにやりそうな思考実験が、そのまま一人の人間を材料に行われているとする。それはつまり紀里谷監督のことである。愛してる。

 本作は、そんな常軌を逸した日本人が作った騎士団の話である。
 余りに気高すぎる騎士団の主君は、冷酷卑劣な大臣からの過重な賄賂要請を拒否した。そして皇帝の命令により、主君は死刑に処されるが、斬首をその主君直属の部下である隊長にやらせたため、その隊長によるバッキバキの血みどろ泥々の復讐劇が開始されることとなる。

 内容としての評価はもういい。
 紀里谷監督が復讐劇というものを毎回ディティールや規模や扱う美学範囲もアップデートさせながら作り続けるのは、ひとえに宇多田ヒカルに惚れて振られたからだ。名誉という言葉が山程出てくる本作において、殊に語られている名誉とは、すべてこの監督の名誉の定義である。厳密には監督自身の名誉のことである。鑑賞後、この映画はたぶん制作費の元が取れてない、と直感できるほどに相変わらず贅沢な構成をして監督はオラオラしている。そのオラオラ加減はエグザイルやジェイ・ソウル・ブラザーズと格が違う。紀里谷監督のそれは雪のような落ち着きを獲得し、世界を狙い、金なんてくれてやるから名誉をくれと叫び、そうして爽やかに狂っていた。

 紀里谷監督という傲慢な才能が、宇多田ヒカルとの離婚の副作用によってさらに傲慢の次元を超える、核融合の結果が本作であり、作品を作品として味わうより、その文脈を味わうのが一番良い楽しみ方かもしれない。紀里谷監督はまた日本から遠くの場所へオラオラと飛んで行った。とても素晴らしいことだと私は思う。

『007 スペクター』(15点/100点満点中)

 ダニエル・クレイグになら犯されてもいい、と誰もが思っているため、ダニエル・クレイグの007続投は誰もが望むところである。次期007候補役にはテイラー・スウィフトの恋人の男が挙がっているらしい。失恋したら元カレへの復讐心を全て歌詞に込めるような女と実際に私も付き合ったこともある。が、あの時はお互いどうかしてたわけであり、あの時はお互いどうかしてたみたいな男には007にはなれない。だからこそダニエル・クレイグになら心の底からファックされてもいい。
 で、結論から言うと『カジノ・ロワイヤル』以降のダニエル・クレイグの『慰めの報酬』・『スカイフォール』そして本作『スペクター』は冒頭シーン以外はほとんど全くと言って良いほど金の無駄。完全な駄作である。千八百円でダニエル・クレイグの自慰行為が見られるなら喜んで払ってもいい。しかし実際に見せられるのは、007スタッフのクネクネしたセルフ・フェラチオである。この差は大きい。GUCCIとG.U.ぐらいに違う。
 粗筋はこうである。
 ダニエル・クレイグがこれまで戦ってきた、算数が得意な人、オイルを安く買って高く売るのが得意な人、マザコンの人、実はそれぞれみんな個別の意志で動いていたのではなく、あたかも蜘蛛の足のように何者かに従って動いていたであって、その何者はもうやべえ悪者らしいしぜひともそいつをやっつけましょう、という大筋だ。モニカ・ベルッチが未亡人をやっているグッと来るシーン以外はもう正直あんまり覚えていないが、一方サイドストーリーとして、これまで色んな人間に色んな方法で爆破されてきた英国諜報本部は、いよいよ政治的機微からその存在ごと国際的に解体させられる危機に至っている。だが思い出す限り、政治的解体危機については『ミッションインポッシブル』が、肉体の限界については『エクスペンダブルズ』が、悪者にも上には上がいて実際悪者同士はみんな仲良しでしたというテーマはバイキンマンかインド神話あたりが、もうとっくの昔に取り組んで消費し尽くしたテーマである。それをなぜか今更になって後追いしたところに遅々たる悲哀があって苛立ってくる。モニカ・ベルッチが後で出てきたりするのかしら、と思って耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで、後半を迎えたが、結局前半ダニエルと一発ヤッただけでフェードアウトした。もうモニカ・ベルッチも色気が抜けきって、魔女のようであった。モニカ・ベルッチはマトリックスでしか見た事がない。あゝ人生はあっちゅう間であるなと思った。
 この映画の最も酷い点は、気付く人が気付いたら絶対に喜んでくれる過去作へのオマージュを、気付く人にしかわからないように散りばめた、というそのタランティーノにしか許されていない不要なサービス精神を、この規模と期待感の最中でやったところにある。
 正直言って、そんなオマージュは知らんし要らん。見たいのはヤバい映画なのであって、そんな昔話をされても嬉しくない。
 一人の男が繰り返し見るアダルトビデオはせいぜい十作品くらいである。その十作品で各一回、計十回射精しているシーンを見せられた後、その男がその十通りのセックスを一人の女に向かって頑張って行うような短編映画があったとする。それはそれでたぶん面白い。が、それと全く同じ思想で作られた本作は、全く面白くない。なぜか。このシリーズは確かに、男の自慰行為のような格式高い伝統はあるが、その伝統をまざまざと大金を掛けて見せつけること自体は、ちっとも格式高くないのである。あ、当たり前か。
 であるからして一旦悪の総本山が崩れ去った次回作は、グラウンドゼロということになる。007次回の敵役はディカプリオとかMI6のイーサンハントとかプーチンとかにして欲しい。中途半端に真面目で不真面目な遊びはお預けにして、ジジババに媚びずに全力で全世代に喧嘩と夢を売る作品にしてほしい。

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