スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『ノーカントリー』(75点/100点満点中)

 レディー・ガガもマドンナもエアロスミスもビヨンセもケイティ・ペリーもアリアナ・グランデも、全員まとめてヒラリーを応援したのにドナルド・トランプには勝てなかった。トランプが勝ったのはアメリカが負けていると言ったからだとする分析結果がある。ヒラリーが負けたのは、アメリカはこれからも勝ち続けると言ったからであり、そしてその味方に、既に勝ちまくってるポップスターを揃えて舞台に上がったからに他ならない、と言うのである。どうやったら勝てたのか。終わってみれば、どうやっても勝てなかったのではないかと思える程の機微でヒラリーは負けたのかもしれない。そしてこれほど皮肉なことはない。
 戦後日本の時代は終わったという言葉を見たが、戦後日本の本当の展開が今日から始まったと言ってもいいんじゃないか。神戸の地震の翌日はこれから起こるであろうすべての最悪なことに、私は避難所の体育館の隅で小さい胸を弾ませたものであるが、アメリカの人もそう思っているのだと私は思う。

 そう思えば近年出てきた殺し屋の映画は傑作揃いだった。
 殺し屋映画というものは不思議なもので、アメコミ映画が戦争史観や直近の戦争の総括的意識であるならば、殺し屋映画とは直近のアメリカの潜在的経済観の反映なのである。
 金の話以外は一切出てこない『ジャッキー・ゴーガン』は、映画としては地味だしブラピがカッコいいだけなのだが、架空の舞台の中の、その社会の外部中の外部である殺し屋ですら取引先との請求金額の確定や請求それ自体にまごつく。錆びれた硬貨のようなアメリカ中部の貧困実態をスクリーン上に初めて引きずり出した佳作であった。同じくブラピがカッコいいだけの『悪の法則』は、メキシコ・マフィアが黙々と迫ってきては享楽的に登場人物を一人一人殺していく。殺す方法は痛めつけるというよりもただ面白おかしく、ナンセンスに、無意味に殺す方法をどこまでも見せてくる。保守派の恐れたメキシコの無秩序、しかしそのメキシコからの移民も犯罪も自国は受け入れざるを得ない経済的絶望、諦観が、比較的恵まれたどことなくハッピーなだけの富裕層に宿命論のごとく及び行く様を映画的に翻訳した、かなりの悪意ある映画であった。

 振り返るに、『ノーカントリー』はそんな殺し屋系列の映画でも異様だったと思う。
 当時、文学として消費された向きがある本作は、殺し屋がヒョイと出てきてヒョイと殺してヒョイと消えていくその異様さがとってもロックでポップでホラーであったのだ。死体の山を掻き分けても、刑事は全く犯人の行方を掴めないまま終わるソリッドな不条理劇だった。「犯罪が意味不明になっている」と嘆く刑事がほんとうに嘆いていたのは、その犯罪の向こうにある見えざる神の手、経済論理、国内外規模の資本主義の速度、それを目の当たりにして錆びついた、あるいは錆びることでなんとか生きながらえてきた地方の高齢者層の自分という、限界であったのである。
 昔はついていけた、今はもう無理、という了見は、その時点における自殺のようなものだ。

 オバマが大統領になった時点で、「アメリカを再び強い国にする」というワードをトランプは商標登録していたらしい。
 アメリカの絶望はやがて怒りに替わり、それは引いては経済効果へと換金できると恐らくはサブプライムローンの崩壊時から彼はその犯罪的な勘で予見していたのである。
 であればこれから作られる殺し屋映画は全くもってその作風を変更せざる得ないことになる。トランプは暗殺されるかもしれないという声が上がっているらしいが、直近の韓国の大統領は何代にもわたって、退任後何かしらの理由で暗殺され続けている。当たり前だが私人が一人暗殺されてもそこに報道価値はおそらくない。映画は、それでも現実を越えなければならない。
スポンサーサイト

Profile

F

Author:F
Mail:gokushitekimovie@gmail.com

最新記事

検索フォーム

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。