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『沈黙 -サイレンス-』 (39点/100点満点中)

 今年度上半期で最も難解な映画かもしれない。日本人として見ると、たとえ理解が及んでも、腑に落ちることは決してない映画だからである。神の話をしているから、ではない。極めて昔の、分かり切った話をしているからだ。腑に落ちることは無い議論というものが、ハリウッド映画で、しかもそれが日本で撮られていて、登場人物の九十九パーセントを日本人を占める映画でも発生するのか。発生したのが本作である。
 基督教布教の為に日本へと上陸したクワイ=ガン・ジンの消息が不明となり、その知らせを聞いた彼のかつての弟子、若きアメイジング・スパイダーマンとカイロ・レンとが救出に行く。しかし政府による現地の隠れ切支丹への宗教弾圧はまさに内地紛争のごとく、熾烈を極めていた。
 人間の命が宗教弾圧の前では藁のように軽い、その無常を剥き出しにして描く演出の一環か、ドラマチックな音楽は劇中一切なく、ひぐらしが鳴くばかりのクラシックな日本の寂れた風景のもと、日本史の教科書では数行で終わらせられる話が、二時間半、日本人による日本人への拷問のフルコースシークエンスとして淡々と描かれる。神はそうして不在である。
 教え子が目の前でバンバン殺される中、さて司祭の苦悩と絶望たるやもはや理解の及ばぬ境地である。それでも神は不在である。
 浅野忠信もイッセー尾形も窪塚洋介もあの手この手の極悪小悪な言葉責めと精神的陵辱で主人公を追い詰めていく。それでも神は不在である。
 果たして、信仰は保てるか。神は不在なのか。という問題提起がこの映画の大まかな体裁だ。しかしぶっちゃけて言うともうそんなことはどうでもいいのでは?しかも今更議論してるヒマなんてなくね?と思ってしまう私は、クリスマスにクリスマスケーキを食べ礼拝堂に行きながら胸の中では沙羅双樹の鐘の音が鳴り響くその諸行無常に嘆き悲しむ一人の純正な日本人である。あまりこんな言葉を使うべきではないかもしれない、が、親日的表現と反日的表現とか目まぐるしく訪れ、司祭が正しいのか奉行政府が正しいのか、さらにはスコセッシは俺たちの味方なのか敵なのか、猛烈な混乱を来さずにはおれない。もはや日本人として鑑賞することは放棄せざるを得ないなとも思えた、が、それでも私は日本人である。この映画の正義もまた複雑だ。棄教しない司祭の前に、棄教した信者の死体を山ほど築いていく奉行=鎖国的日本の正義も、当時の一大正義である。棄教しない司祭の正義もまた、歴史的な決死の正義である。が、果たしてこれをスコセッシがわざわざいま描く理由はなんなのか。
 仏教徒と基督教徒の激論が交わされるシーンがある。日本対欧米のようなシーンである。が、事実日本人は無神論にも一神論にも有神論にもスピリチュアリズムにも傾かず、ましてや仏教密教基督教にも傾かぬ、闇鍋のように複雑にして独特の、もはや共通見解など存在しえないほどの極私的神論をそれぞれが持っている。その文化をその他の宗教文化よりもより洗練されていると誇りにしているのが、多くの日本人の潜在的な考え方ではないか。であるからすれば、スコセッシの『沈黙』が描く日英対立から学び取るものなどもう日本人にはほとんどないのだ。国教対国教を描く必要もない。殊に、日本を舞台にする必要性も無い。なぜならそれは、史実の一側面であっても、事実ではなければ、真理でもないからである。
 欧米の基督教信者であれば、この映画を見て、それでも神を信じ抜く勇気や信念の美徳を見出したかもしれない。信教の自由は布教の自由と同列に扱われるべきだという普遍的正義を見出したのかもしれない。が、そんな古いテーマに付き合ってる暇は我々にはない。自由の国よりも、はるかに自由な、だらしないほど自由な宗教観を持った我々にとっては、とっくの昔に結論が出た話なのだ。千八百円掛けて蒸し返される価値など、そこにはない。
 難解だったのか、理解の容易な作品だったかすらも、鑑賞後は分からなくなるような映画だった。踏み絵を踏むのか踏まないのかというキーテーマが全編を貫いている。即断即決のような性格の持ち主、体裁を取り繕うのがうまい賢い人間にとって、司祭の司祭的な、余りに司祭的な生き方には共感することはまずないと思われる。ところで踏み絵をするときの窪塚洋介のあの脚の長さは惚れ惚れするものがあった。この映画の一番良いところは、窪塚洋介の脚の長さである。その点数が上記の通りである。
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