スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『風の谷のナウシカ』(50点/100点満点中)

 もののけ姫が流行ったのは私が小学生の時で、国語の授業も自然をテーマにした詩を書けと言われ、森をテーマに必死で思ってもない自然への愛を謳い上げたにも関わらず、最高得点を獲得して廊下の掲示板に掲載されたのが、筆箱をテーマにした同級生の親友の作品だった時、私は、国語に、自然に、そしてジブリに絶望したことを昨日のことのように思い出せる。蝉なんて最初から愛していない。蟻は殺すタイプだったし、蚊は拷問してから殺すのが中学受験の唯一の気晴らしだった私にとって、ジブリを愛する資格は一生ない。
 だから風の谷のナウシカを見たのは昨日のテレビ放送のものが初めてだ。
 ナウシカという女の子がロックに生きていた。女の子なのに虫も胞子も愛している。尊敬に値する女の子である。王蟲も物分かりが良い。が、それだけである。
 ジブリが昭和のアイデンティティなら、自然が元からインストールされていないのが現代人のデフォルトではないかと思った。緑がなんだ。ジブリの死とはつまり郊外の完成なのであろう。平成はビルの灰色が似合う。その平成もそろそろ終わるらしい。

『ドント・ブリーズ』(79点/100点満点中)

 今年は『イット・フォローズ』以降『アイ・アム・ア・ヒーロー』が抜群の出来過ぎて、『貞子 vs. 伽倻子』に至っては喜劇、もはやホラー映画の傑作は国産物で終了かと思いきや、数十年に一度の傑作として鳴り物入りで年末に登場したのが本作である。
 経済的事情で強盗を辞めようにも辞められない主人公の女の子と男二人は、ぺんぺん草しか生えてないような地元のデトロイトからの脱出を賭け、最後の山場として盲目の退役軍人が住む郊外の一軒家を狙うことにする。しかし、その退役軍人がその上腕二頭筋や生涯計画含め、『エクスペンダブルズ』か『グラン・トリノ』のイーストウッド並みに血の気の多い、ピュアでヤバい奴だったという話だ。
 襲う側だった筈の者が襲われる側に、そうして襲い返そうとしてもまた襲われ、お部屋の隅っこに追い込まれていく、強盗在宅家訪問劇史上シャレにならない最悪の鬼ごっこが一軒家で繰り広げられる。叫んでも半径四キロには誰も住んでいない。窓ガラスには鉄柵、玄関も裏玄関も錠で締め切られている。その閉鎖空間展開は『テキサスチェーンソー』より早く、『ホームアローン』よりクリティカル、『REC』シリーズより大胆繊細で派手である。開こうとした扉を、老人が向こう側から開けて、銃を持った老人はまだこちらに気付いていない、そして、そこから動くことができませんというシーンは、笑いがこみ上げてくるほど痛快だった。
 息すんなよ、というタイトル通り、劇場ではくしゃみも咳もできないくらいの緊張感がぶっ通しで続く。音がひとつも出ないシーンでは耳鳴りを覚えるほどである。映画館とこれほど相性の良いシークエンスはないのではないか。
 天涯孤独で孤独死まっしぐら。食料調達も覚束ないはずの老人がなぜ自死を選ばず、なにを希望に生きてきたのか、およそこの映画がホラーたる由縁の核心が最後に明かされる。全女性が生理的恐怖を免れないような使い方でスポイトが活躍するのだが、その新しさも評価しなければならないだろう。
 無音の恐怖という表現の可能性をもっと見たくなる。映画を観終わった後はあーだこーだ言い合う気力も奪われ、スポイトのことで頭が一杯になるだろう。

『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』(75点/100点満点中)

 美しい緑に輝くルーカス・フィルムのロゴが現れ、そこに"A long time ago,in a galaxy far,far away...."という水色の英文が当然のようにスクリーンに浮き上がったと同時に、公開初日だったその劇場は拍手喝采となった。これまで映画館に何百回と行ったが、そんな異様な光景は初めて目の当たりにすることである。私個人としてはその拍手で一気に興が醒めそうになったのだが、それだけに外国人観客も日本人観客も異常な集中力を注いで見るこの映画は、御祭騒ぎとしてはかなり真剣な部類に入るんだろう。とはいえ、歴代の作品ファンも、果たしてこれが作られる意義はあるのかないのか、ポップコーン映画なのかちゃんと意味のある映画なのか、異様な警戒感を持って臨んだに違いない。
 本作は、それでも見る価値があったと断言できるリリシズムに溢れている。
 惑星破壊兵器を帝国軍が完成させつつある中、エンジニアであった父親を帝国軍に引き抜かれ、母親を殺された一人の少女が、ならず者となって反乱軍にリクルートされる場面から始まる本作は、文字通り、ならず者の話であり、つまりこれまで延々と語られた、いかにも悪そうな帝国といかにも正しそうな反乱、という清廉な二項対立に物語構造を依拠させていない。主人公の女の子は、帝国も反乱も正直どうでもよく、自らの正義、つまりは親父がどっかに行ったしあたしの人生はもうどうにもならねえからとりあえずなんかをなんとかしてえ、という地下アイドルかラッパーのようなバイブスを貫通させることだけが行動規範にある。だから私軍を形成するのである。これがまず新しい。才能がどうこうとか運命がどうこうという話には全くならない。細かい面では、その流れからソードバトルも出てこない。フォースがどうとかこうとかの西洋的修練話も日本的忍び難きを忍びの話も最小限であり、いやむしろ、フォースというのは頭の狂ってる人が俺にはフォースがあるフォースがあるとブツブツ言っている概念的に無力で祈りのようなものへと葬送されている。であるからして、全編で繰り広げられるのは壮絶な肉弾戦であり、一騎打ちと言うより総力戦であり、語られるのは正義と言うより無情そのものである。
 なにより新しいのは、あるいはそもそもを考えてみればめちゃくちゃ新しかったのは、あの映画のポスターで顔見世されていた人間が、そういえばその前篇後編にも全然いないキャラクターたちばかりである、ということである。これがどういうことを意味するのか、本編がクライマックスを迎える時痛いほど分かってくるのだ。
 劇中、莫大な登場人物が新しい土地名と共に隅田川花火のように湧いて出てくるため、余程高速処理ができる頭でないとどこで誰がいまどこの誰のことを言っているのか、軽い混乱を来すほどの速さで物語は展開する。
 正直言って、もはや主人公の名前も思い出せないほどなのだが、この映画、登場人物の名前などあえてどうでもいいという設計の元で作られた節がある。なぜならシリーズ上、名前すら残らなかった者たちの、ハッピーエンドが決して用意されていないスター・ウォーズなのだから。

『海賊とよばれた男』(65点/100点満点中)

 東京大空襲のシーンから始まる本作は、それでも反戦映画ではない。寧ろ戦争がなければ成立しない感動というものを徹底的に商業映像化した、青い血の人は一滴も涙を流せないが九十九パーセントの日本人の涙腺はちゃんと刺激するよう完璧に計算された起業家ドラマである。ほら泣けるっしょ、え、泣くよね、ほら泣いてもいいんだぞ、という監督の声が全編に轟くようであるが、事実、涙腺が非常に弱く作られた私はたくさん泣かされたので、もうなにも文句は言えん。
 北九州市のチャッキチャキで暴力的、激情的な気風を持った商人であり零細会社社長の岡田君は、世界がいつか石油を中心に回ると予見していた。その確信を元に、天才的あきんど精神で、売れ残った軽油をまずは北九州市中心に、そうして排他的商圏を飛び越えて自市から他市に、他県に、他国へと、敵の数を倍加させながら海賊ばりに商圏拡大させていく過程で遭遇する、ありとあらゆる障害と挫折とその克服を描き、零細会社が大企業へと成長していく話が本作である。
 特殊能力のないワンピースの実写版みたいな話とも言えようか。三十代から九十代までを演じ分ける岡田君にもうジャニーズの面影はない。あんまり汚れ切ったりもしないディカプリオのような様相だった。

 現代からすれば石油は遠い化石のような話であるのに本作がいま公開されるのは、戦前戦後、その裏で四六時中経済戦争を繰り返した男のサクセスストーリーでありながら、その男の下で働いた男たち、つまりはひとつの理想の労働モデルを描いた話でもあるからである。
 カリスマティックな経営者による即断即決の感情経営、現場主義、採用方針。その下で幸福に働きながらも、時には命を賭した忠誠を社長に見せる社員たち。
 無職やフリーターが見たら失明するんじゃないかと思うほど、働く喜びに満ち溢れた映像の連続である。戦争という巨大な物語がない若者にとって、昔は良かったんだなあ、あんな人がいたら残業とかもちょっとはしちゃうかもな、いう月並みな感想に終わってしまいかねない、というか終わるに違いないほどの圧倒的感動劇。
 この話がいま是非とも必要な時代かどうかと言えば、必要だと断言するのは難しいと言わざるを得ない。近代史を描いた時代劇としてはかなり新鮮な角度と彩度の映画ではある。

 唯一、この映画のとても良い点を挙げるなら、サイコパスは経営者にめちゃくちゃ多いなどと嫌儲的精神が蔓延する現代に、ちゃんと日本にもサイコパスのような経営者がいたことを描いたこと、そしてその経営者になるにはほとんど海賊という蔑称を与えられてもガハハと笑い飛ばすくらいの精神が必要だぞと言い切った点である。大企業ってやっぱすげえ歴史があるんだぞ、と言い切るには、このくらいの金を掛けて描かないと成立しない前例を作ったものとしては、非常に意義があると思った。
 とすれば本作、意識が高い人、個人事業主かそれ志望の人にはピッタリの映画であると言える。

『シン・シティ 復讐の女神』(30点/100点満点中)

 我々はエヴァ・グリーンという、すぐ脱ぐ女について考察しないわけにはいかない。

 エヴァ・グリーンは『カジノ・ロワイヤル』のボンド・ガールである。
 眼つきが狂暴で悪役の風情。贅沢な黒髪。どこか幸が薄そうで暗い声。どっからどう見ても美人で、脱がなくてもやっていけるのに、映画ではバンバン脱ぐ。『300』の続編でも脱ぎまくって『300』のあのいつ死んでもいいホモセクシャルの論理とストイシズムをサークルクラッシャーよろしく台無しにした功績には度肝を抜かれた。バンバン脱ぐ。つまりそれはある意味男への絶望である。男社会、映画業界への絶望でもある。

 中年がバカみたいにかっこいい『シン・シティ』、その続編の本作でも彼女は脱いだ。
 これしかやることがないと言わんばかりにあのモノトーンの世界観であのバストをスクリーン上に晒した。全く脱ぐ必要がないのに、である。ヌード界のジェイソン・ステイサムである。エヴァ・グリーンと言えば脱ぐ、というイメージが完全に脳裏にこびりついているため、あたかもいつかは死んでしまう母が帰省する度にだんだんと老いていくのをまざまざと確認してしまうかのように、彼女の裸体は切なく私の目に沁みるのであった。

 『シン・シティ』続編は、そうしてエヴァグリーンが理由不明に脱ぎまくることによって、他の俳優の頑張り具合が全く頭に入ってこない、奇跡のような展開で、駄作になっている。

 脱ぎまくると言えば、私服で露出度の高い人間が私は苦手である。彼女たちの魂胆は分かる。
 あれは商品の陳列のようなものなのだ。世界への礼儀のような、あるいは露出されることで自己確認がなされる何かである。つまり露出されていることを男は否応なく確認する。男に確認されることによって男はつまらんと当人に確認される。こうして男女のどうしようもなさが世界に固定される。ナンセンスである。このいたちごっこを断ち切るにはどうすればいいかと私は考えに考えた結果、街行く女には一瞥もくれないという解決法を20歳の頃から実践した。そうすることによって初めての恋人にはゲイだと思われた。

 つまり何が言いたいか。
 一瞥もくれてやらないことがシン・シティの美学である、ということである。

『シン・シティ』(97点/100点満点中)

 全く知らない街で体感治安最悪な景色を見ることは稀にある。そんな時は決まって「ゴッサム・シティみたいだなあ」と独り言してしまいそうになるし、実際そんな街に出くわした状況が満更でもないと私の中の少年がワクワクするのもまた事実である。キャッチに「お兄ちゃん、おっぱいは?」なんて聞かれた時は本当にびっくりした。おっぱいが耳の中でゲシュタルト崩壊するかと思ったくらいである。「あ、大丈夫です」なんて言うけど全然大丈夫じゃない。おっぱいについてはまったく平素から関心を寄せていないにも関わらず大丈夫じゃなくなったのである。全身黒色の服を着ていれば歌舞伎町の悪いキャッチのお兄さんにはまったく声を掛けられないと気づいたのは新宿に住み始めて一ヶ月経った時のことである。

 が、そんなやべえ街は実際には実在しない。

 そもそも架空のゴッサム・シティですら、すぐに善悪二項対立がどうのこうのと言い出す教育家である。アイアンマンもである。
 そんなのは要らんじゃねえか、男は女のために死ねばよし、と十年前に言い切ったのが俺たちの『シン・シティ』である。

 男は女のために死ね、というたった一行の美学が、一時間半程度の映像になっている。
 
 その思想は雑誌で言うなら『プレイボーイ』か『レオン』そのもの。
 みーんな女のために死ぬ。それでいて本作の女は弱くない。めっちゃ強いのである。

 そしてめっちゃ強い男がバンバン撃たれてバンバン殴られて、バキューンと死ぬ。あっ、オチ言っちゃったけど、オチなんざこの映画、どうでもいいくらい全編が良い。ハナから善悪がどうのこうのは言い出す気はまったくないその潔さ。その潔さを示すのはストーリーラインだけではない。

 映像美は僕がこれまで見た映画の中で飛び抜けて良い。全編白黒だ。
 血と女の唇にだけ赤が着色されている、超絞られた映像配色である。

 本作は好き嫌いを二分する映像美だとよく言われる映画だが、そもそもグロテスクは白と黒と赤さえあれば表現できるのであり、そして白と黒と赤だけでも映えるか映えないかという視点だけでキャスティングがなされた時、死ぬほど美しい女かめっちゃくちゃやさぐれた中年の男しか選ばれなかったという点、贅を極めると言っていい。そうだ。中年の男。もうなんにもすることがないから煙草と酒ばかりやって汚らしいオーバーコートを引きずりながら歩くような男が女のために死ぬ。矢沢永吉が実在の人物である、という事実より幸福な架空である。

 この映画の第二作では俺たちのエヴァグリーンが脱いで脱いで脱ぎまくるが、脱がんでええのに脱ぎまくった点は別途論じる必要があるものの、そんな中年の男たちが、ほら、俺、今から死ぬんだぜ、でも後悔はねえや、みたいなすんげえやべえナルシスティックでカッコいい台詞を連発して華々しく散っていく本作は俺が女なら上映中に100回くらいイッちゃったんじゃないかと思うほど上半身にも下半身にもギュンギュン来る映画なのである。

 なんにも言ってないに等しいレビューだが、なんかあんまり親しくなりたいと思えない人にめちゃくちゃ好きな映画なんだと言いながら本作を勧めるのがちょうどいいなとこの年齢になって気づいた。いや、ほんとに大好きなんだけどね。

『ミュージアム』(64点/100点満点中)

 かつてゲイリー・オールドマンが言ってたと思うのだが、人間の喜怒哀楽の演技の中で最も表現が難しいのは、怒りの演技らしい。理由に彼が附言して曰く「怒るとはつまりいきなり爆発しなければならないからだ。いきなり爆発するにはちょっとした寿命を毎回犠牲にする必要があるから」などと語っていたのを何かの映像で見た事がある。確かに心当たりはある。喜怒哀楽の中で、怒るという動作は心的コストが一番高い。ハイリスクノーリターンであるからこそ、圧倒的な侵害行為であるからこそ、自他ともに迫真性はもちろんちゃんと正当性・急襲性を付加しなければならないということである。一瞬で怒らないといけない。怒ると決めないで怒る人も、怒ると決めて怒る人も、傍目からは一瞬で怒るのでやっぱり怖いのだ。

 本作は、小栗旬が怒って怒って怒りまくる映画である。
 罪状に合わせて私人が勝手な動機で私人を殺す映画『セヴン』が本作の創作根拠となりつつ、妻夫木聡がそんな和製の猟奇殺人犯を楽しそうに演じる。妻夫木聡は妻夫木聡に見えないくらい顔がグチャグチャの設定なのだが、幾ら顔をグチャグチャにしてもヘラヘラしてるとやっぱりシルエットが妻夫木としか言いようがなく、そのヘラヘラ感が今回墓石のように重苦しい小栗旬と良い対比になっている。
 そんな彼がどんな風に人を殺すかはもう予告編でガンガンやってしまっている。そもそも予告編の時点で悪役が妻夫木聡だと言う必要があったのかどうかすらも疑問だが、予告編でやってるということは、割とどうでもいいシークエンスなのだ。ばんばん殺すシークエンスは主に前半の前半の展開であり、本作の新規性は後半にある。

 後半の小栗旬が妻夫木聡に監禁され精神的に虐め抜かれるシーンは、『オールド・ボーイ』や『ホステル』やら『カジノ・ロワイヤル』を超えかねない拷問シーンだった。
 仕事優先で息子の誕生日も忘れ、妻子を実質的に捨てて生きてきたような男が、今や壁の向こう側の猟奇犯に妻子を誘拐され、その妻子が生きているかどうかもわからず、犯人お手製のなんだか牛肉で作られたとは思えない差し入れのハンバーガーにガツガツ食らいつくシーンを見れば、もうその日は絶対にハンバーガーを食べられなくなるし、そもそもマクドナルドとかに足を運ぶ体力すら奪われるくらいに疲れ切るほどの暗澹たるシーンである。
 小栗旬はもうどんどん怒る。顔を真っ赤にしたり真っ青にしたり真っ白にしたり真っ黒にして、やがて人間ではなくなっていく表情の変化は、人間国宝の伝統家芸のように軽妙かつ荘厳で、ところで僕は藤原竜也と小栗旬の声はそっくりだと思うのだけど、やっぱり藤原竜也が悲しさ(というか悲鳴)の表現が多彩なら、小栗旬は怒りの百貨店みたいですてきだなあと思う。

 猟奇殺人をテーマにした映画の評価、悪役の魅力とは右記のような単純式で評価しても良いと思う。即ち「殺し方の斬新さ+動機or出自の意味不明さ+特にそういうことをなんにもしてない時の高等遊民感+ルックスのキモさor洗練されてる感+反省のしてなさ+ちゃんと逮捕されず最後は逃亡できたかどうか」である。そういう指標で判断した時、本作の妻夫木聡君は、その最後以外は完璧ではないかと思った。

『小さな悪の華』(1点/100点満点中)

 劇場公開は約半世紀前のフランス映画である。
 ボードレールの『悪の華』も今となっては眼つきのヤバいハゲがなんかヤバめなことをヤバめなフロウで言っている読後感しか齎さない。そしてボードレールのそれと関係のあるようであんまり関係ない本作は、当時内容の非道徳性から政府に上映禁止を命じられたと言う。国内公開時のコピーは「地獄でも、天国でもいい、未知の世界が見たいの!悪の楽しさにしびれ 罪を生きがいにし 15才の少女ふたりは 身体に火をつけた」という主観と客観が入り混じって死ぬほどイライラするしついでにオチまで丁寧に教えてくれる機能性の高過ぎるキャッチコピーだったらしいので、今更になって気になって見てみた訳である。というのもツタヤがオススメしていたからである。が、結論から言うと、目が腐るのではないかと思うほどに虚しい映画であった。十三歳やら十五歳の女はやっぱりクソつまんねえなという感覚が私のDNAに深く刻み込まれるような映画であった。
 基督系の寄宿学校で、官能小説を屋根裏部屋から発見した同級生の少女二人が、真夜中布団に閉じこもって懐中電灯を照らしながら読誦し、キャッキャしている。
 そのまんまのノリでレズビアン・セックスでも始まるのかな、私が彼女だったら始めちゃうけどな、と思いながら見たが、一向にしてレズビアン・セックスは始まらない。ありえない。男子校であればそんなもの余裕で始まるのに、この寄宿学校では始まらない。ナンセンス。その時点でもちろん、0点である。
 この少女二人は、夕食前に煙草を吸ったり、夕食後は服を脱いで自分の成長過程の身体に見惚れたり、ついでに鳥とか毒殺したり男の前で脱いで男に強姦されそうになって泣きながら逃げたり、ついでに最後は詩でも読みながら焼身自殺を図ったりと、それなりに頑張ってはいる。だが、最低と言うには努力が滲み、最高と言うには臆病さが垣間見え、中途半端と言うにはその時代環境を鑑みればある程度の斬新さは否定できない、という、なにもかもが中途半端な顛末で、その中途半端性に置いては完璧なのだが、タイトルを見れば『小さな悪の華』という用意周到なエクスキューズが行われている点では、一点くらいの知性を感じる。だから一点である。

 誰に向けられた作品なのかと言えば、これは当時の不自由な少女に向けられた作品であろう。
 管理教育からするりと自由にはばたき、淫靡なことをすることに使命感を持った、行動主義で悪魔を崇拝している少女たちは、たぶん時代的に見て、善い存在である。が、なんていうのだろう、その凋落の度合いが、ちっとも粋じゃない。アン・ハサウェイが、チャラチャラして適当にセックスしてそのノリでチャラチャラとヤバい街に行って、優しそうなギャングにいきなりレイプされそうになったのでワッと泣きながら逃げる、でもチャラいまんま、という極めて難解な映画を思い出した。あの系譜の元をたどればこの映画に辿り着くのかもしれない。
 もっとやばい少女なら、いくらでもいた筈だ。もっとやばい話なら、いくらでもできた筈である。少女映画の傑作は、あるようでまだないんじゃないかと思う。

『グランド・ブダペスト・ホテル』(80点/100点満点中)

 銀色のアクセサリーよりも、金色のアクセサリーに昔から魅かれた。思えば小学低学年の時、母の寝室にある硝子の華奢な宝石箱を家に誰もいない時間を狙って、ただひとり眺めるのが好きだった。その理由はうまく説明できない。宝石を乙女として眺めていたというより、ただ満たされきってしまった老人の様な心持ちで眺めていたのである。その宝石たちを身につけた母を結局見ることはなかった。今になって知ったが、それらはこの時代身につけるには悲しいほどに派手過ぎるデザインだったのである。私は彼女が死んだら、それを譲ってもらう約束をしなければならないだろう。私の中の乙女と老人が、そう言っている。
 金色とは、つまりもう役に立つことを諦めた色だ。もう機能らしい機能をする気はありませんという色である。身につけられることのないアンティークとは完成された小さな金色の廃墟だろう。贅を尽くすにはただ優雅である以外に義務などない、とダンディズムの王ブランメルは後世に自哲学を寸言で遺した。

 いつか我々も記憶の廃墟になる。あるいはもうそうなっているのかもしれない。百貨店にある雑貨屋とは、ある意味乙女的な諦観を売るのである。映画館が映画を売るように。

 本作はそんな廃墟の中にあった廃墟、さらにはその中の廃墟に、かつて脈打っていた豪華絢爛な黄金時代と文明、戦争と諧謔と知性と懐古主義とをミルフィーユのように重層的に描いた映画である。

 小説家の銅像というどこにでもあるひとつの廃墟から、その小説家の小説という廃墟、そしてその小説の作者が訪れたホテルで、彼が出会った孤独な老人という廃墟。その老人がドアボーイとして勤めたそのホテルで支配人として君臨していた、超有能にして軽薄で饒舌な金髪のホテルコンシェルジュの人生譚を本作は描く。

 ストーリー自体はどうしようもない男が東奔西走するドタバタコメディだ。
 笑えるシークエンスの笑いも、たった一秒しか笑えないイギリス風のジョークである。パッと見せてパッと別シーンに行く粋で可愛らしい見せ方。
 劇中、九十九パーセントのシーン構図は一点透視図法で撮影され、そのカメラワークは上下左右に九十度ピッタリにしか動かない、至って非合理な徹底振り。
 かつては非合理こそ贅沢なのであった。
 この世で一番インスタグラムの写真を撮るのが上手い人が完璧に映画を撮ったらこうなる、としか言いようのない贅沢感がイライラするくらい、作風は洒脱を極める。

 そうしてイライラするほどオシャレな主人公が、殺人犯という冤罪を被せられながらもその名誉を回復するために軽薄軽妙なやり口で逃走しながらも、部下のドアボーイとベルリンの古城や雪山を駆け抜ける様は愛おしい。

 主人公の最期は悲哀に満ち溢れている。
 唯一諧謔抜きで描かれる、軍との対峙シーンは劇中二度現れる。

 戦争という全てを廃墟にする時代趨勢で、それでも廃墟の中に残された光のなんたるかを語り、パタンとこのお菓子のような絵本は小粋なエンドロールを迎える。

 二十五歳を越えると友達か親戚の一人は死んだり、あるいは結婚して子供を産んだりする。これから買うものや選ぶものは、たとえば一冊のその本は、世代を越えて残す価値があるか、つまりは本棚に置いていいものか、次の世代に譲っても恥ずかしくないものかどうかをふと考える。あるいは本でなくても、それが有形のものか無形なものなのかは問わない。いま残っているものは、明らかに誰かが残そうと思って望んだものであり、それについて少し時間を取って考えたくなる映画だった。

『ノーカントリー』(75点/100点満点中)

 レディー・ガガもマドンナもエアロスミスもビヨンセもケイティ・ペリーもアリアナ・グランデも、全員まとめてヒラリーを応援したのにドナルド・トランプには勝てなかった。トランプが勝ったのはアメリカが負けていると言ったからだとする分析結果がある。ヒラリーが負けたのは、アメリカはこれからも勝ち続けると言ったからであり、そしてその味方に、既に勝ちまくってるポップスターを揃えて舞台に上がったからに他ならない、と言うのである。どうやったら勝てたのか。終わってみれば、どうやっても勝てなかったのではないかと思える程の機微でヒラリーは負けたのかもしれない。そしてこれほど皮肉なことはない。
 戦後日本の時代は終わったという言葉を見たが、戦後日本の本当の展開が今日から始まったと言ってもいいんじゃないか。神戸の地震の翌日はこれから起こるであろうすべての最悪なことに、私は避難所の体育館の隅で小さい胸を弾ませたものであるが、アメリカの人もそう思っているのだと私は思う。

 そう思えば近年出てきた殺し屋の映画は傑作揃いだった。
 殺し屋映画というものは不思議なもので、アメコミ映画が戦争史観や直近の戦争の総括的意識であるならば、殺し屋映画とは直近のアメリカの潜在的経済観の反映なのである。
 金の話以外は一切出てこない『ジャッキー・ゴーガン』は、映画としては地味だしブラピがカッコいいだけなのだが、架空の舞台の中の、その社会の外部中の外部である殺し屋ですら取引先との請求金額の確定や請求それ自体にまごつく。錆びれた硬貨のようなアメリカ中部の貧困実態をスクリーン上に初めて引きずり出した佳作であった。同じくブラピがカッコいいだけの『悪の法則』は、メキシコ・マフィアが黙々と迫ってきては享楽的に登場人物を一人一人殺していく。殺す方法は痛めつけるというよりもただ面白おかしく、ナンセンスに、無意味に殺す方法をどこまでも見せてくる。保守派の恐れたメキシコの無秩序、しかしそのメキシコからの移民も犯罪も自国は受け入れざるを得ない経済的絶望、諦観が、比較的恵まれたどことなくハッピーなだけの富裕層に宿命論のごとく及び行く様を映画的に翻訳した、かなりの悪意ある映画であった。

 振り返るに、『ノーカントリー』はそんな殺し屋系列の映画でも異様だったと思う。
 当時、文学として消費された向きがある本作は、殺し屋がヒョイと出てきてヒョイと殺してヒョイと消えていくその異様さがとってもロックでポップでホラーであったのだ。死体の山を掻き分けても、刑事は全く犯人の行方を掴めないまま終わるソリッドな不条理劇だった。「犯罪が意味不明になっている」と嘆く刑事がほんとうに嘆いていたのは、その犯罪の向こうにある見えざる神の手、経済論理、国内外規模の資本主義の速度、それを目の当たりにして錆びついた、あるいは錆びることでなんとか生きながらえてきた地方の高齢者層の自分という、限界であったのである。
 昔はついていけた、今はもう無理、という了見は、その時点における自殺のようなものだ。

 オバマが大統領になった時点で、「アメリカを再び強い国にする」というワードをトランプは商標登録していたらしい。
 アメリカの絶望はやがて怒りに替わり、それは引いては経済効果へと換金できると恐らくはサブプライムローンの崩壊時から彼はその犯罪的な勘で予見していたのである。
 であればこれから作られる殺し屋映画は全くもってその作風を変更せざる得ないことになる。トランプは暗殺されるかもしれないという声が上がっているらしいが、直近の韓国の大統領は何代にもわたって、退任後何かしらの理由で暗殺され続けている。当たり前だが私人が一人暗殺されてもそこに報道価値はおそらくない。映画は、それでも現実を越えなければならない。

Profile

F

Author:F
Mail:gokushitekimovie@gmail.com

最新記事

検索フォーム

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。